クライスラー「愛の悲しみ」
落ち着いたテンポの曲で、多くの人に知られているので、コンサートの序盤に演奏することが多い曲。難易度もそれほど高くないので、練習の最初や指の感覚を確かめたい時にたまに弾いている。一晩中戦って昂ぶった神経を落ち着かせるにもちょうど良い曲だ。
目を瞑ったまま、すでに身体に染み付いた動きに従ってヴァイオリンを奏でる。ほぼ無意識で行われるその行動の裏で、私の意識は深い海の底に潜るように演奏の中に吸い込まれていった。
幼い頃から、私はいろんなお稽古事をしてきた。バレエ、茶道、華道、書道、絵画、ピアノ、水泳、ヴァイオリン、テニス……その中でも、自分が得意としていて長く続けているのが、水泳、ヴァイオリン、絵画だった。
どのお稽古事も、大抵はそれなりのレベルまで達することができた。それは、単に私が幼少期からかなりの時間をそれぞれのお稽古に費やしてきたからであって、決して自分が抜きん出て才能があったわけではない。強いて自分の才能を認めるとすれば、幼くとも嫌がらずにお稽古を続けた忍耐力だろうか。
でも、どのお稽古事をどれほどのレベルまで極めても、私はいつも「自分には何か足りない」という感覚を拭えずにいた。何をやっても、どこか自分の何かが欠けている気がして満たされないのだ。それが何なのか、ずっとわからないでいた。
唯一、その感覚を忘れさせてくれたのが、今も続けている三つのお稽古事なのだ。
特に水泳とヴァイオリン……これらは全く異なるものだったけれど、取り組んでいる時の感覚はとてもよく似ている。時には流れに身を任せ、時には流れに逆らい、そして次第に深い場所へ潜っていくような感覚……その深い意識の底で、私はもう一人の自分と出会えるのだ。
自分に足りないものを探し続けていた私が、唯一もう一人の自分と向き合い、対話できる場所。それが水の中、もしくは音楽の中なのだった。
そしてそこで感じたこと、もう一人の自分と話したこと……それらを絵画で表現していた。
だから、方向性の異なる三つの嗜みは、私の中ですべて繋がっている。他人に理解してもらえたことはないし、してもらおうと思ったこともないけれど。
私がセーラーネプチューンとして覚醒したとき。ずっと水や音楽の中で対話していた「もう一人の自分」はネプチューンだったのだと悟った。覚醒するずっと前から、セーラーネプチューンは自分の中にいたのだ、と。
そしてそれに気づいたとき、自分にずっと足りていなかったものにも気づくことができた。