気がつくと、みちるの家の前まで走りに来ていた。何度か彼女を送りに来たことがある。彼女にはドライバーもついているし僕が送る必要はないのだが、最近は「一緒にいたほうがいろいろと都合が良いから」と行動を共にすることが増えた。それで僕がここまで来ることも増えたのだ。
高級住宅街の中でも、控えめに言っても大きなみちるの家。そこそこに身長の高い自分よりも遥かに高い門構えを見上げ、ふぅっと息を整える。
先程別れたばかりのみちるを思い出した。僕が家まで送ると言ったら、車を呼ぶからいいと断られた上、「あなたも早く帰って休んだほうがいいわ」と言い残し早々に帰宅してしまったのだった。
情けない。こんなことを考え、ここまで走ってくるのだったら、無理にでもみちるを家まで送ればよかったのに。
唇を噛んで、うつむいて立っていたその時。はっとして顔を上げた。
……ヴァイオリンの音がする。
静寂の中、それは微かに聞こえてきた。か細く、悲しく、けれど確実に意思を持った音色。
紛れもない、みちるが奏でる音色。みちるも帰って間もないから、おそらくろくに休んでいないはずだ。
「みちる」
思わず呟く。もちろん小さく囁いただけのその声は届くはずもなく、静寂の中に消える。ヴァイオリンの微かな音は続いている。
「みちる」
もう一度。先程より少し強く、その名を発した。とはいえ、部屋までは絶対に届くはずはない。
だが、ややあって、ヴァイオリンの音色が止まった。僕は驚いて目を瞠る。
一瞬の間が空き、二階の向かって右側にある部屋の小窓が開いた。隙間からみちるの目が覗き、僕の顔を捉えたのがわかる。その瞳には明らかに驚きの色が浮かんでいた。
「待って」
みちるが小さく声をかけ、窓をパタンと閉めた。数分も経たないうちに、どこから出てきたのだろうか、みちるが正面玄関ではない場所から現れた。門越しに声を掛ける。
「どうして」
「それはこっちの台詞よ。帰らなかったの?」
驚きと焦りも含まれたような顔で僕に問う。その視線は顔、おそらく先ほどの戦いで汚れやかすり傷がついたままであろう額と頬を撫で、それから左腕に移る。上着で隠されてはいるが、恐らく僕が先ほど負った傷を気にしているのだろう。
僕も同じく、みちるの顔と、腕を順に眺めた。どうやら帰宅後にきちんと手当をしたらしく、かすり傷や汚れは拭き取られ、腕には包帯が巻かれていた。
「早いな、さすがだ」
僕が感心していると、みちるは呆れた顔でため息をついた。
「早く手当しないと痕が残ってしまうわよ。家でやっていきましょう」
みちるが後ろを示した。しかし、ただでさえ入ったことがないみちるの家にこんな早朝からお世話になるのはさすがに気が引ける。
「遠慮しておくよ。すぐ帰って手当するから」
「でも……」
みちるは納得していない顔だったが、みちる自身この状況でどうすればよいのかと考えあぐねている様子でもあった。
「どうして、僕が来たことがわかったの?」
みちるが迷っているうちに話題を変えてしまおう、と僕は尋ねた。みちるはうつむいて、呟くように言う。
「……わかるわ。あなたに呼ばれたら」
「えっ」
みちるは、少し恥ずかしそうな顔をして俯いていたが、こちらに視線を戻し、続けた。
「わかるわ。だって、はるかは私がずっと探していた人ですもの。はるかに呼ばれたら、わかるわ」
家々の隙間から光が溢れ出し、朝日が昇って来たことに気づいた。僕は言葉を発せないままみちるを見つめていた。
「はるかこそ。なんでここまできたの?」
「それは……」
悔しくて。ただ自分の不甲斐なさが情けなくて。その抑えきれない衝動のままに、気づいたらここに来ていた。
うまく言葉にできないけど、僕はいつも通り風の声に従っていただけなのだ。
「……君の顔が見たかったんだ」
色々と考えた末に振り絞って出た言葉が、自分でも思いもよらない方向に飛び出したため、僕はあっと思う。引き戻そうとした時にはもう遅く、既に僕の口からその言葉は発せられていた。
今度はみちるが驚いたような顔になって僕を見つめていた。横から朝日が差しこんできて、みちるの顔をオレンジ色に染める。