それから一週間、僕は毎日この時計と共に過ごした。みちるはいつも通り、いや、いつも以上に食事に気を遣い、毎日ノートに食事メニューを書き込んでくれた。
そして今日。結果の分析のためスポンサー企業に出向いた。
「私も一緒に行っていいかしら。食事のこと、一緒に聞きたいの」
と言って、みちるも同行することとなった。
担当者に時計とノートを渡して応接室でしばらく待っていると、女性社員がやってきた。
「天王様。今回は弊社の申し出をお受けくださりありがとうございます。早速、簡易検査の結果をお話しますね」
女性はテーブルに数枚の紙を広げて見せた。グラフやコメントが載っている。
「まず……お食事。こちらは申し分がないくらい素晴らしいメニューですね。とても良く考えられています。これから栄養士にも詳細な分析を依頼しますが、おそらく同じ見解になるでしょう。
あの、専属のトレーナーをつけていらっしゃるんでしたっけ……」
「いえ、彼女が。とてもよく気遣ってくれていますので」
隣に座っているみちるを示して言うと、女性社員は驚いた顔になり、感心したように頷く。
「プロのトレーナーも顔負けのメニューですね。
一応こちらにアドバイスなんかも書かれていますが、食事についてはあえて改善するようなことはないと思いますので、ご参考までに」
女性がさらりと読み飛ばしたアドバイス欄を見てみると、そこにはこう記載されていた。
『食物繊維とタンパク質の両方を補う食材として、豆腐や納豆などの摂取をおすすめします。』
僕と一緒にそのアドバイスを読んだみちるがクスクスと笑っている。
「納豆ですって。積極的に取り入れても良さそうね」
小声で僕に囁く。僕はあからさまに嫌な顔をしているのを隠さず、
「冗談じゃない」
と返した。
「では次に、普段の生活リズムについて。こちらは時計から計測された情報のグラフです」
女性は資料を入れ替えて説明を始めた。
「心拍数と歩数、運動量のグラフですね……。トレーニング量に対してきちんと休息も取られているようですし、こちらも大きな問題はなさそうです。
ただ……」
女性が説明を止め、ひとつのグラフを示した。
「基本的に睡眠不足もなさそうなのですが、夜寝る前はあまりトレーニングなさらないほうがよろしいかと思います。睡眠の質も下がってしまいますし」
示されたグラフを見た。睡眠時間と、睡眠時間中のレム睡眠、ノンレム睡眠の割合などが書かれている。記録では、一週間のうち、月曜日と水曜日の睡眠時間が少し短かった。
――月曜日と水曜日……。
僕が考えていると、一緒に覗き込んでいたみちるが、あら、と言った。
「そういえばはるか、この前は夜に研究のためにレースの録画を見ていて、急にトレーニングしたくなった、だなんてジムに行ってたわね?」
驚いてみちるの顔を見る。そんなこと、今週はなかったと思うのだが。
みちるが意味ありげにこちらをちらりと見る。みちるの意図がわかりかねたが、その後すぐにその日の出来事を思い出してはっとする。……いや、まさか。
「……あ、ああ。そうだったかも」
女性がそれを聞いて頷いた。
「あまり寝る直前でなければ、夜のトレーニングも効果的ですが。ご無理はなさらないでくださいね。
あとは心拍数なのですが……」
女性が続きを話している間、僕は月曜日の出来事を思い出していた。
僕達はその日いつも通りベッドに入り、身体を重ねていた。お互いに気持ちが高まり、身につけるものがなくなったところで、みちるがふと僕の左手に触れる。
「これは……外さないの?」
みちるは僕が左腕につけている時計に触れた。時計と皮膚の隙間から心拍数を測るためのセンサーがちらちらと光っている。日常生活では気にならないその小さな光は、暗くした部屋ではやけに不自然に目立って目障りだった。
みちるとの時間を意外なものに邪魔されたため、僕はむっとして答えた。
「しばらく外してるとアラームがなるんだよ」
「まあ。ずいぶん便利な機能ね」
みちるも皮肉交じりに返した。その後お互いの身体に夢中になっている間にそんなことは忘れてしまったのだが、こんなものをつけているせいで気分が削がれたという思いは否めないでいた。
――まさか。
「……という感じなのですが……。また後ほど詳細な結果をお渡ししますね。
ひとまずお約束の一週間は終わったのですが、今後はどうされますか?弊社としてはサービス向上のために引き続きご使用くださると大変光栄なのですが」
考え事をしている間にいつの間にか女性の説明は終わっていた。はっとして答えを返そうとすると、その前にみちるが口を開いていた。
「もういいんじゃないかしら、はるか。生活リズムも食事も大きな改善点はなさそうだし」
その反応があまりに早かったので、僕も瞬間的に頷いてしまった。
「そうですね。遠慮しておきます」
みちるが断らなくても、僕も早くこいつから解放されたいと思っていたところだ。続ける理由はない。残念そうな顔で見送る女性社員と別れ、僕らはオフィスビルを後にした。
ビルを出てから、隣を歩くみちるに尋ねた。
「随分ときっぱり断ってくれたね」
みちるはちらりとこちらを見る。
「あら。続けたかった?」
「まさか。もうたくさんだ」
僕は首を振る。それからみちるの顔を見ていて、何かを感じた。この顔を僕は前にも見たことがある。
「ねえみちる。もしかして僕があれをつけてるの、嫌だった?」
みちるはまたこちらを見て、立ち止まった。すましたような顔で答える。
「二十四時間はるかと一緒にいて、私との夜を邪魔する……」
一度そこで言葉を切って、にっこりと笑う。
「別にそれくらいで嫌だなんて思ってないけど?」
「……」
その笑顔に妙な強さを感じたので、僕は返す言葉なく黙ってしまった。
「あ、それに」
みちるはこう付け加える。
「あんな小さな時計よりも、私のほうがはるかのことを良く知っているし……ね」
……まったく。
「君には敵わないな」
僕は時計が外れて軽くなった左腕を差し出した。みちるはそこに自らの腕を絡めて歩き出した。
その晩僕らは何にも邪魔されず一晩を過ごすことができた……というのは言うまでもない。