みちるを迎えに行った足で、はるかは約束通り、海岸線へ車を走らせた。午後になっても爽やかな快晴で、絶好のドライブ日和だ。しかしはるかの頭には時折先程の夢のことがもたげ、心をずしりと重くさせる要因となっていた。
「少し、眠いわ」
助手席でみちるがあくびをした。人前で気を緩めることのないみちるにしては、珍しい姿だ。それは自分だけが見られる姿だと思うと少し嬉しい反面、みちるの眠気の理由を考えて、はるかは表情を曇らせる。
「あのさ、みちる」
海沿いの駐車場に車を止め、海岸を歩きながら、はるかはみちるに切り出した。はるかの少し先を歩いていたみちるが足を止め、振り返る。うきうきとした足取りであることが後ろ姿からもわかっただけに、その歩みを止めてしまうことにはるかは罪悪感を感じた。
「夢、僕も見たんだ」
はるかがそう切り出すと、みちるの表情が一瞬にしてすっと強張った。
「はるかも?」
はるかが小さく頷く。みちるは数秒間、黙ってはるかを見つめたあと、俯いて言った。
「そう、はるかも……」
「朝の時点では、あまり気にしてなかったんだ。だけどさっき仮眠を取ったときにもまた見たから。もしかしたらと思って」
はるかはそう言いながら、みちるに近づいていった。みちるは海の方を向き、手に持っていた小さなトートバッグから深水鏡を取り出した。みちるが鏡面をじっと見つめる様子を、はるかは傍で見守る。
やがてみちるは顔を上げ、首を振った。はるかはその様子でみちるの鏡に何も映っていないことを察する。
「風が騒ぐ気配もない」
「海もよ」
「でも、おそらく何かが起こる」
二人は沈んだ声を発した。和やかだった二人の間の空気が、一気に沈み込んだのがわかる。
「せっかく平和に暮らしていたのに、また何か起こるかもしれないのね」
「ああ」
みちるの隣にはるかが立つと、みちるは自らの腕をはるかに絡めた。はるかの腕に頭を預けるように凭れたみちるを、はるかは受け止める。
しばらくの間、二人はそうして海を眺めていた。
「みちるは……」
黙って海を見つめていたはるかが口を開きかけ、躊躇うように口を噤んだ。みちるは顔を上げ、首を傾げる。はるかの表情に入り交じる迷いを読み取り、言ってもいいのよ、というように腕を握った。
「いや。もうみちるは、戦いたくない?」
はるかは海の方を見つめたまま、呟くように言った。みちるははるかを見上げながら、柔らかい笑みを浮かべる。
「そうね。戦わなくて済むのなら、戦いたくないけれど」
みちるはそう言ってからはるかと同様に視線を海に向けた。まだ高いところにある日差しが、水面をきらきらと輝かせている。潮風が心地よく二人の頬を撫でていった。
「でも」
今度ははるかがみちるに視線を落とした。みちるの表情はどこか憂いを帯びていながらも、優しく温かい。それは見下ろすように見ているはるかからもわかった。
「大切な人を守ることができるなら」
みちるの表情は、どこか決意を持った表情に変化した。目の前でさざめく波の音に混じって、遠くで少し強めの波が防波堤にぶつかる音が届いた。それはまるで、みちるの決意を後押ししているかのようにも感じられる。
「ねえ、はるか。もしまた戦わなければならないなら」
今度はみちるが少し躊躇うような素振りを見せながら、口を開いた。みちるが言葉を続けようか迷うように見えたので、はるかは急かさず黙ったまま、次の言葉を待つ。
「もう、あの時のような戦い方は、やめましょう」
みちるの言葉に、はるかは一瞬目を丸くした。あの時のような――それはつまり、どちらかが犠牲になったとしても使命を果たすと約束した、あの時の戦い方だ。
あの時は、例え自分か相手の命が失われても、使命を果たすことが第一だと考えていた。それが戦士としてやるべきことである、と。
しかし、これからは。
はるかはみちるの言葉を受けて、少し先の未来に思いを馳せた。もし次に戦わなければならなくなり、どちらかの命が脅かされたら、自分はどうするか。
はるかは少しだけ考えた後、すぐに頬を緩めた。みちるではなく自分自身を安心させるかのように微笑む。そして空いたほうの手で、はるかの腕に絡むみちるの手を握った。
「ああ。もちろんだ」
二人はドライブを終えて帰宅した。その後はいつも通りに食事を摂り、入浴し、リラックスして過ごした。迫りくる夜に対しての恐怖は胸の奥底にあり、息苦しいような喉が詰まるような不快感は拭えずにいたが、裏を返せば起きている時間はまだ楽しく過ごしていられるということでもあった。もちろん、敵が近づいてきていて、寝ている時間ではなく起きている時間に突然襲ってくるおそれもあったのだが、今のところその気配を感じることはなかった。
はるかとみちるは、努めて普段どおりに過ごすよう、お互いに意識して過ごしていた。
「みちる」
とうとう寝る時間になり、二人は寝室にやってきた。ベッドに腰掛け、向かい合う。萌葱のような深い緑の瞳が、みちるを見つめた。
みちるはその時に、この部屋で暮らし始めた時のことを思い出していた。
戦いが終わり、自然と十番町を離れる決意をしたこと。どちらからともなく一緒に暮らす流れになり、頬の緩みを抑えきれなかったこと。暮らし始めたその日に、お互いの気持ちを確認し合ったこと。初めてこの寝室に来て向かい合い、口づけを交わしたこと。それから……。
はるかの顔が近づいてきて、みちるはゆっくりと目を閉じた。柔らかい唇が触れ、温かい吐息がかかる。軽く浮き沈みを繰り返してから、名残惜しむようにはるかは離れた。その唇を追うように、みちるは瞼を開ける。
「大丈夫」
はるかはそう言って微笑んだ。先程までははるかの瞳の中にも少し不安が見えていたのだが、今は優しく自分を励ましてくれているように見える。みちるも微笑んで、頷いた。
二人はベッドに横たわり、手を繋いだ。みちるは深く息を吸い、吐き出して、目を瞑った。不安と緊張でいつもよりも落ち着かなかったが、隣にいるはるかの手のぬくもりに集中し、落ち着いて呼吸する。
やがて、みちるの頭の中をぼんやりとした眠気が支配し始めた。頭の後ろを引っ張られるように意識が眠りに引きずり込まれていく。頭の中で、眠りたくないという気持ちが少しだけ眠気と格闘しているように感じられた。しかし、そう思ったのもつかの間。みちるはあっという間に深い眠りの海に落ちていった。