夕陽が落ちかけ、ビルの灯りが目立ち始めた。先ほどまでに体験した全ての出来事が、あまりに濃く、あっという間で、一日のうちに起きたこととは思えなかった。
せつなは、後部座席に座っていた。助手席に乗るように勧めたけれど、遠慮したのだ。
「無理にとは言わないけど」
そう言って微笑んで見せたら、額面通り受け取ったようで後部座席に座ってしまった。
「しょうがないな」
僕は苦笑いして、車を発進させた。
「この辺かな」
車を走らせてそれほど経たないうちに車を停めた。みちるがいる病院からはさほど離れていない、海辺の公園だ。薄暗くなってきているせいか人はまばらだが、仲良く肩を並べて歩くカップルの姿が見える。
せつなを促して、海が傍に見える遊歩道まで歩いて行った。大人が優に乗り越えられるくらいの柵が、海辺に建てられている。そこまで歩いて行って、僕はポケットからあるものを取り出した。
――ネプチューンの、リップロッド。
僕のポケットに入ってほんのり温まっているそのロッドを、一瞬ちらりと見た。だけどすぐ、あまりじっくり見ない方がいいな、と感じた。手放しにくくなってしまうからだ。僕はすぐに目を離した。
次の瞬間、僕の身体はもう動いていた。
僕はすぐさま大きくかぶりを振って、手にしていたロッドを海に向かって放り投げた。
ちゃぽん。
緩やかな弧を描いて、リップロッドは海に吸い込まれた。
しばらくそこで波間を見つめていた。海は穏やかで、岸に打ちつける小さな波音がちゃぷんちゃぷんと聞こえてくる。高速道路が近いからどうしても車の音は聞こえるが、それも微かで、邪魔になるような音は何もなかった。
最後に、先ほどまでロッドを握っていた手を見つめてから、僕は後ろを振り返った。背後にいたせつなが声をかけてくる。
「本当に、これでよかったのですか」
「ああ」
せつなは何かを噛み締めるような、悲しげな顔をしていた。
「あなたたちは、本当に……」
せつなはそう言いかけて、目を伏せた。僕は先を促さなかった。せつながどう言おうか迷っているように見えたのだ。
「いえ、なんでもありません。」
せつなは言葉を飲み込んでしまった。ふっとため息をついて、遠くに視線を逸らす。
せつなの言わんとするところは、なんとなくわかっていた。そしてそれがうまく言えない理由も。
「いいんだ。」
僕は呟いた。それはせつなへの答えではなく、僕自身に言い聞かせるように。
「これでいいんだ。」
せつなは依然としてどこか遠くを見ていて、僕とは視線を合わせなかった。僕も、海辺の柵に腰掛けるように凭れ掛かり、地面を見つめていた。
「これからは、僕がみちるを守るから」
先ほど病室で言ったのと同じ言葉を、僕はもう一度繰り返した。僕自身に対する、誓いの言葉だ。
みちるには、もう何も背負って欲しくないんだ――。
海からの風が抜け、潮の香りを感じた。それを合図にしたかのようにせつながこちらを向いた。寂しげな表情をして、目元をきらきらと光らせている。
「そんな顔、するなよ」
僕は思わず苦笑した。
せつなも黙って苦笑いを浮かべた。
僕たちはなんとなくその場に留まっていた。背後から夕闇が迫ってきて、空が美しいロイヤルブルーに変化していくのを、ただただ眺めていた。
僕がまたせつなに背中を向けて海を見ていると、しばらくしてからせつなが隣にやってきた。
「私は、一度未来へ帰ろうと思います。」
せつながそう呟いた。僕ははっとして顔を上げ、せつなを見た。先ほどまでの悲しげな表情とは違い、いつもの落ち着いた瞳に戻っている。
「帰る……のか」
すぐに言葉が浮かばず、僕はただそう言った。せつなは海の方を見たまま、こちらを見ずに頷いた。
「キングに呼ばれています」
「君はどうなるんだ」
思わず尋ねた。キングに呼ばれたというのは、やはり力を使ったことを咎められてしまうのではないか、そう思ったのだ。
せつなは一瞬躊躇うような素振りを見せてから、静かに首を振った。
「それは……わかりません」
せつなはこちらを見なかった。今日は随分といろんな表情のせつなを見たが、今はそのどれでもない、感情を奥に押し殺した顔だった。
出会った頃の顔だ――。そう思いながら、僕はその横顔を眺めていた。
せつなは再び口を開いた。
「ただ、少なくとも私は禁忌と同じくらい危険な力を使ったにも拘らず、まだ生きています。生きることを許されています。
ですから、これからも私は私の務めを全うするしかありません」
そう言ってから、僕に顔を向ける。決意を秘めたような顔に、僕はただ頷くことしかできなかった。
「君には……なんと言ったらいいかわからないよ」
「いいんですよ。全て私が決めたことです」
せつなは慈愛に満ちた優しげな表情で微笑んだ。その表情を見ていると、心が少し温まるのを感じた。
「ほたるのことだけが少し気がかりですが」
せつなは一瞬寂しげな表情になり呟いた。しかし、ほんの一瞬でまた元に戻る。
「でも、もう彼女は新しい一歩を踏み出していますから。大丈夫でしょう」
どこか自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「せつな……」
僕が名を呼ぶと、せつなは踵を返して僕から離れた。手にはすでにロッドが握られている。
「ありがとうございました」
せつなが丁寧に頭を下げてから、ロッドを掲げた。そして変身の言葉を唱えたのち、セーラープルートに変身した。
「また、どこかで」
せつなはそう言い残し、音もなく姿を消した。最後は名残惜しむ余裕もないほどにあっという間の別れだった。
波の音が相変わらず、ちゃぷんちゃぷんと音を立てているのが耳に届く。随分薄暗くなった遊歩道に立ったまま、僕はせつながいなくなった空間をしばらく見つめて立ち続けていた。