うっすらと目を開けてみると、白い天井が視界に映った。無機質で、規則的な模様のついた天井だ。どこかの施設だろうと思っていたら、鼻から独特の匂いが飛び込んできた。
――病院ね。
「みちる?」
声を掛けられたのでそちらを見てみると、はるかとせつなが私を見ていた。二人は、今まで私が見てきたどのような場面でも見たことのない、悲壮感に満ちた表情をしていた。しかし、私がゆっくりと顔を動かして微笑んで見せると、瞬く間にその表情が明るく変化する。
「みちる……!」
「ああ、よかった。みちる」
はるかは目を細め、せつなの瞳は光っているのがわかった。
どうしてここにいて、はるかとせつなに見つめられているのだろう。一瞬それがわからなくて、一度二人から視線を逸らして目を閉じ、ゆっくりと記憶を辿っていった。そして、これまでのことを思い出す。
――ああ、そうだったわ。
「戻って……きたのね」
小さく呟くと、はるかが軽く顎を引いて頷いた。私はゆっくりと身体を起こした。
はるかは私の身体を起こす手助けをしてくれたあとで、せつなの力を使って私たちの身体を少し前の状態に戻したことを説明してくれた。
「せつなが……」
私がせつなの名を呼ぶと、せつなが小さく頷いた。
「すみません。あなたの意思には反したかもしれませんが、私にはこうする以外の選択肢はありませんでした」
せつなが申し訳なさそうな顔をするので、私はいいえ、と軽く首を振った。
「こちらこそ。あなたを巻き込んでしまってごめんなさい」
私の応答に、せつなも首を振った。
「私があなたたちの身体を戻したあと、はるかは早くに目覚めたのですが、みちるはなかなか意識が戻らなくて……それで、念の為病院に連れてきたのです」
「天王家の融通が効く病院にね。検査したけど特に問題はなさそうだから、明日まで休んだら帰ろう」
はるかがそう言った。憂いを含む柔らかい笑顔。こんなに切ないはるかの顔を、私は見たことがなかった。
浮かんでくる様々な感情を抑えて、誤魔化すように窓の方を向く。日が傾いてオレンジ色に彩られた東京の景色と、海が見えた。戦って倒れたのは日中のことだったから、数時間目を醒さなかったということか。
窓側に顔を向けた時に、ベッドサイドの小さなテーブルが目に止まった。そしてそこにディープ・アクア・ミラーが置かれていることに気づいた。鏡面を伏せられた状態で置かれている。私は手を伸ばして、そっと鏡を持ち上げた。
手に持った時の重み、感触はいつもと同じ。でも、鏡面を表にすると、そこには走るような亀裂が無数に入っていた。
私は言葉なく、それを見つめていた。ずっとずっと私のそばにあったタリスマン。だけど今は、割れた鏡面を見ても何の言葉も浮かんでこなかった。
「みちる」
鏡面を見つめる私に、はるかが声を掛けてくれた。私はそちらを見上げる。その目は、痛ましいほどに悲しい雰囲気を湛えていた。……まるで、何かを抑えるように。
その瞳を見た瞬間、私は悟った。はるかはたくさん聞きたいこと、言いたいこと、感じていることがあり、それを敢えて口に出さないようにしてくれているのだ、と。
私ははるかに向かって軽く頷いてから、もう一度鏡面に目を戻す。ひび割れた表面を撫でた。
「一ヶ月くらい前……だったかしら」
私は口を開いた。かつてその鏡面に映っていた光景を思い出しながら――。
ギャラクシアとの戦いが終わってからも、私は毎日ミラーを覗くことを習慣としていた。いつ敵が現れてもすぐに気がついて、私たちのプリンス、プリンセス、そして地球を含めた太陽系の惑星を守れるように。
そしてその甲斐あって、一ヶ月ほど前に、敵の気配をミラーの中に感じとることができた。最初はぼんやりしていて、ほとんど何を表しているかわからなかったから、はるかやせつなには知らせなかった。伝えるには情報が少なすぎて中途半端だったし、まだ先のことであるというのも感じていたからだった。
それから数日間ミラーを覗き続けてだんだんとはっきり見えてきた光景に、私は愕然とした。
真っ先に映ったのが、ウラヌスが倒れるシーンだったからだ。
見間違いではないか……そう思って何度も見つめ直したが、そこに映るシーンが変わることはなかった。
私の毎日の習慣が一気に地獄に変わった瞬間だった。
最初ははるか本人に話をしようと考えた。しかし、その悍ましい光景をはるか本人に話すのは躊躇われたし、私の口から発するのは到底難しいと思った。
だから次に考えたのはせつなだった。せつなは冷静で的確なアドバイスをくれるから、せつなであればきっと何か良い方法を思いついてくれる――。
でも、ちょうどその頃は、ほたるとの別れの準備をし始めた時期だった。せつながほたるに付き添って土萌教授の元に出かけることも多く、単純にせつなと二人で話す時間が取りづらかったというのもある。しかしそれ以上に、せつなが一人になった瞬間に時折とても寂しそうな顔をしているのを見て、この話題を出しづらく感じていた。
もちろん、そうは言っても外部の敵の侵略から地球を守るのが最優先の務めである……そのことは認識していた。どんなにはるかやせつなに伝えるのが心苦しくても、危機が迫っているのであればそれを極力防ぐよう動かなければならない。
いざそう思って二人に話すことを決意すると、今度は三人の間に何かしらすれ違いが起こるようになった。はるかは急に国内外への遠征が立て続けに入り、せつなは所属する研究所での実験のトラブルで、何日か帰宅が遅れる日々が続いた。どちらかが家に戻っていた日に限って、私のコンサートが予定されていたりもした。
――まるで、何かに邪魔されているかのよう……。
いっそ、はるかの遠征をもっと長めにできないか。私も一緒について行って、遠征のあとそのまましばらく東京を離れて旅行でもどうか……。さりげなくそう言った提案をして、どうにかはるかが敵と戦う運命を避けられないかどうかも試みたが、どちらへ誘導することも叶わなかった。「その時」は刻一刻と迫ってきた。
――これは変えられない未来なのだろうか。
二人がいない期間はほたるも土萌教授の家に行っており、一人残された部屋で私はずっとミラーを覗いていた。
ミラーをずっと覗くうちに、あることに気がついた。ミラーは基本的に実際に起きる出来事を断片的に映してくれるのだが、自分の意思で行う行動は、多少変化させることができるらしい。つまり映っているのは仮定された未来で、自分の意思によって発生する未来は何パターンか存在するということだ。
そこで私は何パターンか、自分の行動を変化させた場合の未来を見てみることにした。ミラーが映し出す自分に意思を送るようなイメージで見つめていると、ミラーの中の私も、送られた意思に沿った行動に変わる。ミラーに映るのは断片的なシーンだから、全てを操作することはできなかったけれど、私はミラーの中でいくつかの未来を体験することができた。
例えば。
ウラヌスが倒れる直前にサブマリン・リフレクションで敵の攻撃を弾いたら?
敵の攻撃が当たる直前にウラヌスのことを突き飛ばして、自分が身代わりになったら?
はるかとせつなが敵の気配に気付く前に、私だけ先にあの橋へ行き、敵を倒そうとしたら?
「いろいろ、試してみたの。でも、ダメだった。どう頑張っても、ウラヌスが倒れる未来には、私の意思が及ばなかった」
ここまで説明してから、ふう、とため息をついた。この一ヶ月間何度も何度も見て、もう脳裏に焼きついて離れなくなったウラヌスの死が、また鮮明に蘇ってくる。一人残った部屋で、泣きながらミラーを見つめ続けた日々を思い出した。
「そうか……」
はるかが、私を慮るような表情で見つめていた。片手で目元を覆って、呟く。
「気づいてやれなくて……ごめん」
私は少し手を伸ばして、はるかの空いている方の手に指先で触れた。はるかの手がぴくりと動き、私の手に触れてくれる。
「いいのよ。はるか。だって私が隠そうとしていたんですもの」
はるかが手の隙間からこちらに目を向けてくれたのがわかったので、軽く微笑んだ。
「その……まだ話せるようなら教えて欲しいのですが」
せつなが私の体調に気遣うように声をかけた。大丈夫よ、と今度はそちらに微笑んで見せる。
「二人が入れ替わったのは、みちるの力なのですか?」
せつなの問いに、私はまだ話していなかったことがあるのを思い出した。
「ああ、それは」