「嘘……だろ」
しばらく呼びかけを繰り返したあと、どうやってもネプチューンが目を覚まさないことに気づき、ウラヌスが放心したように呟いた。プルートは両手で顔を覆っている。
「どうして……なぜ、こんなこと……」
プルートがうわ言のように呟く。
ウラヌスは、横たわる自分の身体を呆然と見つめていた。
――みちるが、僕の身体の中から、消えた。
頭の中で、その事実を反芻する。
乱れた金髪に精悍な顔立ち。引き締まった身体に、長い手足。紛れもなく、自分の身体だった。それがたった今、みちるが消えたことで動かなくなってしまった。
「何でだよ、みちる……」
視界がぼやけるのを感じながら、ウラヌスが呟いた。
「なんで君はそうやって、自分を犠牲にしようとするんだ」
ネプチューンの手を握り続けたまま、ウラヌスは話しかける。
「なんで君はまた、自分だけの世界に行ってしまうんだ」
しかし、ネプチューンから返事が返ってくることはない。
ウラヌスは力なくそのまま項垂れていた。先ほどまで確かにネプチューンが中にいて動いていたはずの自分の身体を、ずっと抱え続けていた。腕が痺れてきていたが、もはやそれすらも自分の感覚なのかどうか、わからなくなっていた。
「なあ……せつな。どうすればいいんだ……」
ウラヌスが呟いた。プルートは顔を上げ、ウラヌスを見た。その顔はもちろんネプチューンの顔で、発せられる声もネプチューンの声だ。しかし、なぜか今はそこに虚空を見つめるウラヌスの姿が見えるような気がした。
「僕はみちるが残してくれた身体でみちるとして生きればいいのか……?僕だけ?」
ネプチューンの声で、小さく、低く呟かれるその言葉に、プルートは思わず首を振った。プルートの目から涙が零れ落ちる。
「はるか、やめて……」
「なあ……そんなのって、ないよな……」
「……っ」
プルートは声にならない、呻くような声を絞り出した。ネプチューンがウラヌスの身体から去り、残されたウラヌスはネプチューンの身体の中で絶望している。とても見ていられる状況ではなかった。俯いたまま自らの拳を固く握り、自分の膝の上に乗せていた。
――何か。何かできることは……。
乱れた思考の中で、プルートは必死に考える。このままでは残されたウラヌスもどうにかなってしまいそうだ。自分だって、正気を保っていられるかどうかわからない。
どうすれば良いのだろうか。
プルートがはっと顔を上げた。
――時間を、元に戻す……。
プルートが持つ、最大にして最強の能力。時空を操る能力。
――二人が入れ替わる前に戻れば……。
プルートが立ち上がり、ガーネット・ロッドを手にした。深呼吸をして、乱れた息を整える。
「私が……どうにかします」
プルートはどうにか呼吸を落ち着かせ、静かな声で言った。橋の上は風が吹き乱れ、せつなの長い髪がなびく。つと、プルートがウラヌスとネプチューンから目を離して周りを見ると、敵の攻撃の影響の名残なのか、橋に車や人が入ってくる様子はなかった。
やるなら今だ。プルートはそう感じた。
「よせよ、せつな……」
ウラヌスは顔を上げずに言った。掠れたような小さな声だった。
「時間を操作することは、最大の禁忌だろ?君も死ぬかもしれない」
「わかっています」
プルートは頷いた。ウラヌスが言うことは、当然認識している。だから、自分の身を挺して力を使うつもりでいた。
ウラヌスは顔を上げた。これほどに悲壮感に満ちたネプチューンの顔を、プルートは見たことはなかった。何かが込み上げてきそうで、慌てて堪える。
ウラヌスが口端を上げて言葉を発した。
「時間を戻してどうするんだ。みちるにこんなことをやめるよう説得するのか?この敵との戦いに遭遇しないようにすればいいのか?」
ウラヌスはそこでまた俯いて、横たわるネプチューンを見た。躊躇うように視線を動かし、また口を開く。
「みちるが……言ってただろ。どう頑張っても避けられなかった、って」
ウラヌスに言われて、プルートもネプチューンが力尽きる間際のその台詞を思い出した。
「みちるの鏡がどんな風に見えていたのか僕はよく知らないけど……多分、みちるはあらゆる可能性を考えていた……と思う。敵に遭遇しない方法も、僕達が入れ替わらなくて済む方法も」
プルートは立ってロッドを構えたまま、黙ってウラヌスの言葉を聞いていた。
「それだけ考えても僕の身体を守ることだけは避けられなかったんだ」
一度言葉を切って、ウラヌスがふっと息を漏らすようにして笑った。
「それでも、僕という人間を……僕の魂を生かす方法を考えてくれたから、こうなったんだろうな」
「はるか……」
ウラヌスは、ずっと抱き抱えていた自分の身体をゆっくりと地面に横たえた。その手……ネプチューンの手で、頬と髪を優しく撫でる。
それから、立ち上がってプルートの正面に立った。
「君の申し出は嬉しいよ、せつな」
言葉と共に、ウラヌスの目から涙が溢れ出して、流れた。
「でも、それをするというのなら……僕は全力で、君を止める」
「何故ですっ……」
驚き、迫るプルートに対し、ウラヌスは片手を額に当て、俯くようにしながら苦悶の表情を浮かべて首を振った。
「不確実なものに君の生命を懸けて欲しくないんだよ……」
「でも……事実がわかった上でみちると相談すれば、どうにかできるかも……」
プルートの提案に、ウラヌスはもう一度静かに首を振った。
「どうにかできても、できなくても、今度は君が死ぬ運命になる」
ウラヌスがそう言って、ふーっと息を吐いた。
「全く……。なんで君も、みちるも。そうやって自分を犠牲にしたがるんだ……」
ウラヌスは、今度は両手で自らの顔を覆った。完全に顔を隠してうつむき加減で立っている姿を見ると、ネプチューンが泣いて居るようにしか見えなかった。
「なあ、せつな。僕は確かにみちるをとても大切にしていたさ。元に戻る方法があるなら縋りたいと思ってるよ。時間を戻せるなら、戻したい。
……でも、君だって大事な仲間だと思ってる」
ウラヌスが、顔を伏せたまま息を吸い込み、ため息をつくように吐き出した。プルートは何も言えず、その様子を見ている。
「頼むよ……。君まで自分の世界に行かないでくれよ」
震える声で、ウラヌスはそう吐き出した。
懇願するウラヌスを見て、プルートは唇を噛み、俯いた。
プルートは一度、禁忌を犯して消滅している。そう。無限学園に乗り込もうとしたヘリコプターの中で、だ。
結果的にその後、再び与えられた使命のおかげで復活を遂げることができたが、あれは偶々にすぎない。
たった数十秒、時間を止めただけだった――。
禁忌の内容に大小があるのかどうかはプルートにもわからない。しかし、あの時の数十秒の時間停止ですら、自分を簡単に消滅させる原因となったのだ。今回は数時間、あるいは数日の操作が必要である。無事でいられる保証は全くなかった。
そして、ウラヌスの言う通り、いくら自分が身を挺して時間を操作したところで、この運命を避けられる保証もない。そうなった時、自分は消滅した上でウラヌスは再びこの現実と向き合うことになる。
プルートはガーネット・ロッドを持つ手を力なく下ろした。自分はどうなってもいいからこの時を戻したいという気持ちと、戻してもどうにもならないという事実を受け入れること、どちらを優先すべきなのだろうと思っていた。
――せめて。この二人を何とか……。
プルートは、目の前で項垂れるネプチューンの姿をしたウラヌスと、地面に横たえられたウラヌスの身体に視線を向けた。
そして、再びロッドを構える。
「わかりました」
プルートの言葉にウラヌスは、自分の言葉を聞き入れてくれたと悟って顔を上げた。しかし、プルートの表情とロッドを手にした姿を見て、顔を強ばらせる。
「……せつな?」
「安心してください。時間は戻しませんから」
プルートはぎこちなく微笑んだ。
いつになく緊張していた。グローブの中が汗ばんでいるような気すらしている。初めてガーネット・ロッドを手にした時ですら、このような感覚はなかったかもしれない。
「何をするつもりなんだ?」
ウラヌスが鋭い声を上げた。
「時間は戻しません。
ですが。あなたたちの身体を少しだけ……入れ替わる前の状態にします」
プルートの言葉に、ウラヌスは目を見開いてプルートを見つめた。
「そんな、こと……。できるのか……?」
プルートは否定も肯定もなく、そのまま微笑んでいた。
――できるはず、だ。
もしできた場合、禁忌には当たらないはずだった。なぜなら、プルートの禁忌は「時間の操作」であり、人体や物体の操作はそれには当たらないからだ。
しかし、全くの禁忌ではないと断言するには、ややグレーであることも認識していた。操作を行う対象が時間ではないにしろ、人体や物体が持つ「時間軸」を操ることになるからだ。人体や物体が持つ時間軸を操り、対象の状態を今より少し前にしたり、後にしたりする。
時間そのものを止めたり戻したりするわけではないものの、対象が持つ時間軸を操るためにプルートの時間操作の力を使うのだから、一歩操作を誤れば禁忌に触れてしまうことになるのは、プルートも認識していた。
この操作は、かつて時空の扉の番人になる前――シルバー・ミレニアム時代に――、修行の中で一度だけ、試したことがあった。その時に操作したのは、人体ではなく、物体。それも、意図した操作ではなく偶発的に発生した操作だった。
プルートがこの操作を行えることを知っているのは、その場でプルートの様子を見ていた当時のクイーン・セレニティのみだった。クイーンはプルートが物体の時間軸を操作したことを咎めなかったが、決してこのことを口外してはいけない……と言った。
プルートは、その時にクイーンから言われた言葉を思い出した。
「プルート。あなたはとても強い力を持っています。良い方向に使えれば、この力は誰かを救うのにとても役立つことになるでしょう。
ですが……良いと思って行動した結果が、必ずしも良いものになるとは限りません。また、一方の側面から見て良い結果に見えたとしても、他の側面から見てそうなるとも限りません。
この力を使うことは、禁忌である時間の操作と同じくらいの危険な行為だと言うことを、覚えておいてください」
プルートは目を閉じた。
――クイーン。申し訳ありません。
心の中で、小さく唱える。
プルートが目を閉じていると、ウラヌスの声が聞こえた。
「せつな。僕は君の力のことはよくわからない。けど、君の力を使うのは……」
「今からやろうとすることは、禁忌には当たりません」
プルートは目を開け、ウラヌスの言葉を遮って言った。もう自分に迷う時間を与えたくない。そんな勢いを持って。
「ただし」
プルートが一瞬躊躇うような素振りを見せた。が、またすぐに話し始める。
「百パーセント上手くいく保証があるわけでもありません。禁忌ではないですが、未来のキングやクイーンからお咎めがあるかもしれない。
何より、あなた達を元に戻せる確率も、百パーセントとまでは言えません。時間を戻すより余程リスクは低いですが、それでも失敗する可能性は多少なりともあります」
プルートはウラヌスを確と見つめた。ウラヌスは戸惑いの色を浮かべた瞳でプルートを見ている。
「……それでも、今一番あなたたちを救える可能性が高い方法です。
やっても……いいですか?」
プルートの問いに、ウラヌスは、唇を噛んで俯いた。
「僕はどうなってもいい……けど、君が……」
いつものウラヌスにしては歯切れが悪い返事だった。自分一人だけの犠牲、もしくは使命のための犠牲であれば、即決できたのだろう。今迫られているのは、そのどちらでもない決断だ。
しかしその一方で、プルートの提案に縋りたいという気持ちもあったし、プルートが自分たちのために動こうとしてくれていることに、大きな感謝と驚きも持っていた。
「なんで、君は……」
ウラヌスは再び視界が滲むのを感じながら、プルートを見つめた。
「僕たちのために、そこまでしようとしてくれるんだ……」
ウラヌスは一言一言、言葉を紡いだ。
プルートはそれに対し柔らかく微笑んだ。少し困ったような表情を浮かべて、呟く。
「なぜでしょう、ね。
……でも、私にとって、はるかもみちるも大切な存在ですから」
そう言った後で、ああ、とため息をついてもう一言付け加える。
「それに、みちるの精神がいなくなって、みちる姿のはるかが生きているという状態……そちらの方が私は頭がおかしくなりそうです」
プルートは困ったような表情で微笑んだまま、言った。ウラヌスも同様に、眉根を寄せて困ったような表情を浮かべ、苦笑した。
ウラヌスが自分を止めないと悟り、プルートはガーネット・オーブを手のひらの上に掲げた。
「みちるの傍へ」
小さな声で促すと、ウラヌスは横たわる自分の身体の隣に跪いた。安らかに眠るようなその顔を再び見つめる。
ウラヌスの準備が整ったのを見て、プルートが静かに目を閉じた。ガーネット・オーブの周りに風の渦が巻き起こる。始めは小さかったその渦が次第に大きくなり、ウラヌスとネプチューンの周りを自然と取り囲んだ。
ウラヌスは渦の中心から、橋の上に立つプルートを見つめていた。
ネプチューンの瞳を通して見る世界は、自分の瞳で見るよりも潤って、温かい――。
ぼやけて滲むプルートを見ながら、ウラヌスはぼんやりと感じていた。
やがて、ウラヌスの視界が遮られるほどに渦が強くなる。
「せつな!」
周りが完全に見えなくなった後で、ウラヌスは渦の中心から外に向かって叫んだ。プルートからの返事はない。
「ありがとう」
そう唱えた言葉が、きちんと口から出たかどうか……それを確認する間もなく、ウラヌスの記憶は途絶えた。