朝食の後みちるは、いつも通りヴァイオリンを手にした。特に予定がない休みの日でも、ヴァイオリンには必ず触れている。
持ち上げて自分の肩に載せると、いつもと感覚が違った。おや、と思い、ヴァイオリンを下ろす。
――腕の長さが違うのね。
弓を持つ腕を伸ばしてみた。いつもよりもすらりと長く伸びた腕。その腕の先には、自分をいつも包んでくれていた大きくて優しい手がある。
――私の好きなはるかの手……。
ヴァイオリンを弾こうと思って手に取ったのに、思わずその手に見惚れてしまった。一度ヴァイオリンを置いて、両手を自らの前にかざす。
しっとりとして美しく、しなやかな手だった。女性にしては大きいけれど、男性のようにゴツゴツしていない。この手が、毎日自分に触れてくれるのだ。それを思っただけで、胸が高まってしまう。
我慢できなくなって、こっそりと自分の手で頬を覆った。だけどそれは、いつも「触れてくれる」はるかの手の感覚とは違っていた。みちるは自らの期待が外れたことを残念に思って、手を下ろす。
「何してるの?」
声を掛けられてみちるが振り返ると、そこには自分が立っていた。もちろんその身体の中にいるのははるかだ。腕を組んで部屋の入口に凭れるように立っていた。自分の顔が、口端を上げたようなクールな笑みを浮かべているのはなんだか不思議な気持ちだった。
「ふふ。見られちゃったわね」
みちるは、自分がはるかの手を眺めて楽しんでいたことを隠そうともせず、微笑んでみせる。はるかはそれを見て苦笑した。
「なんだか僕の顔がみちるの笑い方をするのは変な感じだな」
「あら。それはこっちの台詞よ」
みちるははるかに近づいていって、本来自分のものであったはずの長い髪に触れた。はるかの目線で見る自分は少し小さくて、上目遣いでこちらを見ている。
「はるかは、いつもこうやって私を見ているのね」
みちるが髪を撫でていると、はるかがその腕を掴んだ。
「みちるこそ」
はるかが、ぐいとみちるに顔を近づけた。二人はそのまましばらく見つめあう。
「もっといろいろ、試してみる?」
はるかはみちるに囁いた。
しかし、少しの間その状態で見つめ合った後で、はるかは掴んでいたみちるの手を下ろした。
「……無理、だな」
はるかは額に手を当て、ため息をついた。
「そうね……」
みちるも苦笑いを浮かべて、同様に頷く。
気持ちは今までと変わらないが、目の前に迫る相手も自分の顔。口付けようとした唇も自分の唇。例え服を脱がせたとしても、そこに現れる身体は自分自身のもので、触れれば自分の声で反応が返ってくる……。はるかはそれを想像しただけで気持ちが萎えてしまった。
「早く……元に戻ってみちるに触れたいな」
はるかがそう言った。みちるはたちまち自分の顔が悲しげに変化する様子を目にする。形の良い眉が下がる様子に加え、悲しげな自分の声が聞こえて、みちるは思わずはっとしたような表情になった。瞳が戸惑ったようにさっと震える。
一瞬の間の後、みちるも俯いてから再びはるかのものであるその手を眺めて、言った。
「そう……ね」
みちるが顔を上げて悲しげに微笑む。
「私も、もう一度はるかに触れて欲しいわ」
「みちる……?」
みちるの言葉に何か引っかかりを感じて、はるかがもう一言、口を開こうとした時だった。
「……っ!」
突然の気配に、二人は瞬時に窓の外を見た。そして次の瞬間にはもう目を合わせて頷く。
「来たわね」
「ああ」
それからすぐ、パタパタと廊下を駆けて来る音が聞こえた。せつながノックもそこそこにドアを開け、飛び込んでくる。
「今……!」
はるかとみちるは、せつなに向かって頷いた。
「私達も今、感じたわ」
「やはりそうですね」
「二人の入れ替わりに関係する敵なのでしょうか」
みちるはパンツのポケットからはるかのリップロッドを取り出して、首を振った。
「関係があるかは分からないけど……」
はるかも同様に、みちるのワンピースのポケットからみちるのリップロッドを取り出す。
「行ってみるしかないな」
せつなは二人がそれぞれの「見た目に合わせた」リップロッドを持っているのを見て驚いた。
「あなたたち……それで、戦えるのですか?」
はるかがせつなに向けて笑みを浮かべた。はるかの顔であれば、不敵で強気な笑みと言えただろうその表情は、みちるの顔で表現されると少し柔らかく見える。
「やってみなきゃわからないけど。やるしかないだろ」
そう言ってみちるの方をちらりと見る。
「行くぜ、みちる」
みちるもはるかを見て頷いた。
「よくってよ。はるか」
二人のあべこべなやり取りを、せつなは戸惑ったように見ていた。
今の状態で二人が変身できるかどうかわからない。変身出来たとして、戦えるかどうかもわからない。
いや、変身や戦闘ができないだけならまだ良いかもしれない。二人が入れ替わった理由もわからないのに、無闇に変身したり敵と接触をすることで、二人の身体や心に何か悪い影響が及ぶおそれだってゼロではないのだ。
――こんな状態で、二人を戦いに向かわせて良いのだろうか。
せつなは躊躇い、二人を止めようと手を伸ばしかけた。しかし一方で、敵の正体も強さも分からないのに自分一人で飛び込むことの危険性も思い出す。
せつなが伸ばしかけた手を宙で泳がせる間に、はるかとみちるは目の前で変身しようとリップロッドを掲げていた。
「待っ……!」
せつなの言葉が届かぬうちに、変身を始めていた。はるかはみちるの姿でネプチューンのロッドを持ち、ネプチューンに変身するための台詞を。みちるははるかの姿でウラヌスのロッドを持ち、ウラヌスに変身するための台詞を。
二人は光に包まれ、目の前でセーラー戦士姿に変身した。
「ウラヌス……ネプチューン……」
目の前には、確かに見慣れた二人のセーラー戦士がいた。
「変身できたな」
ネプチューンが呟く………が、おそらく中身はウラヌスだ。
「そうね。これで戦えれば問題ないわね」
ウラヌスが口を開くが、やはりこちらはネプチューンの口調だ。
ネプチューン姿のウラヌスが、二人の姿を交互に見ていたせつなに声をかけた。
「ほら、せつな。行こうぜ」
せつなに向かって手招きするように腕を振って、ウラヌスは部屋を出ていこうとした。ネプチューンもその後に続く。
――二人がそう言うのなら、仕方ありませんね……。
せつなは覚悟を決め、自らもロッドを取り出す。迷いなく変身の台詞を唱えた。
変身したプルートは、二人を追って急いで部屋を出た。