以前、おだんごとその友人が、喫茶店でファーストキスの話をしていたことがある。僕たちはその場に居合わせて話を聞き、途中から会話に参加した。その時にみちるの言った言葉に、僕は少し意外だと思ったことがあった。
「ファーストキス、大切にしたいわね」
落ち着いた柔らかい笑みで話すみちるは、いつもの彼女そのものだったのだが、僕はそこに、年齢相応の女子高生らしい笑顔を垣間見た。
ああ、そうか。みちるもこんな表情をするんだ。
――可愛いな。
自然と浮かんだ感情に、内心驚いた。みちるに対してこういう感情を抱く自分がいることに、今まで気が付かなかったのだ。
だけど僕は、自分で言うのも変な話だけど、おだんごやその友達、あるいはそれ以外にも、少し年下の女の子に可愛いと思ったり、それを伝えたりすることはよくあったから、あまり気に留めていなかった。それよりもその時は、風が騒ぎ始めていたから、次の敵のことで頭がいっぱいだった。
あの日、結果的にあの少女から出現した心の結晶はタリスマンではなかった。ゴミ集積場で月を見上げながら、使命に対して迷うような発言をしたネプチューンに、絶対に使命を果たすと言い切ったあとで、ふと日中の出来事が頭を過ぎった。
僕たちはこの先、使命のことだけ考えて生きていく。
――ファーストキスを大切にしたいと言ったみちるの願いが叶うことはあるのだろうか。
直後、僕はみちるがその願いを叶えるところを想像した。自分以外の、見知らぬ男性と。
――そうなるのは嫌だ。
自然と、そう思った。
なぜだろう。みちるは僕の恋人ではないのに、みちるが他の人のものになるのを嫌だと思うなんて。
確かにみちるは大切だ。だけどそれはあくまで……共に使命を遂行するパートナーとして、だ。
僕は一瞬頭に浮かんだ想像を慌ててかき消した。そしてネプチューンに「帰るぞ」と告げ、その場を後にしたのだった。
僕たちは使命を何よりも優先しなければならない――そう思って一旦頭の外に追いやったファーストキスの話題にまた触れることになったのは、その数日後だった。
みちるの部屋で、次のターゲットについて相談をしていた時のことだ。前回ターゲットとなった、件の少女の話になった。
「ファーストキスに憧れるピュアな心の持ち主でもタリスマンを持っていないのね」
そう言ってみちるはため息をついた。僕はあの喫茶店での会話を思い出し、みちるに言った。
「そういうみちるも憧れていたじゃないか」
使命の話題に憂うような表情を見せていたみちるは、驚いたようにぱっと目を見開いた。みるみるうちに頬が染まり、戸惑ったような表情に変化する。
――なぜそんな反応をするんだ。
深い意味を込めて言ったわけでもなかったのに、思わぬ反応をされて、こちらが驚いてしまった。てっきり、いつものように落ち着いた様子で返されると思ったのに。
僕はそこでふと、喫茶店でこの話題になった時にみちるに抱いた感情を思い出した。
――可愛い。愛しい。
ああ。そうか。僕はみちるのことを、そう思っているんだ。
「みちるにもそういうところ、あるんだな」
気づいたら僕は、みちるの心を試すような発言をしていた。
「キス……してみる?」
あとから考えると、なぜこんなことを言ってしまったのだろうと思う。僕たちは決してそういう関係ではないし、そういう関係になってもいけない。
僕はみちるに、どう答えてほしかったのだろう。
僕はみちるとキスをしたかったのか。
――みちるとその先、どうなりたかったのか。
これまで感じたことのない空気が二人の間に流れ、しまった、と思った。が、結局その後、みちるの方から僕の額に触れるような”友情”のキスをして、その話題は終わった。
キスの直後、いつも通りの大人びた表情に戻り、紅茶を啜るみちるに動揺し、僕は思わず呟いていた。
「なんだよ、それ……」
――”友情”って。なんだよ。
僕がみちるを意識せざるを得なくなったのは、多分、その日からだった。思い返せば今までもたくさんのきっかけはあって、繋がりそうなタイミングはいくらでもあったのだけれど、僕の心が動いたと感じたのは間違いなくこの出来事がきっかけだ。
その日以降、僕は、みちるの言葉や行動が、気になって仕方が無くなった。それまでも、みちるとは親密に接していたし、言葉遊びとして、恋人らしい会話もしていたが――僕は特定の恋人を作ったことがないから、実際のところどこからどこまでが恋人らしい会話なのかもわかってはいなかったのだが――、今まで気にしなかった態度、言葉が、妙に際立って感じられるようになってしまった。
そして、どこまでがパートナーとして自然な態度で、どこからが踏み入っては行けない領域なのか、わからなくなってきてもいた。
恋人公園でコンテストに出ることになった時。僕はコンテストそのものにはちっとも面白味は感じられなかったし、くだらないものだと思っていたのだが、みちると公然と”恋人”と言えること自体は、実は悪くないと思っていた。
普段は、戦士としての使命を最優先し、自分達はそういう関係になるべきではない、と自分に言い聞かせている中で、堂々と”そうではない”と言える日があるのが、なんとなく嬉しかったのだ。
だけどみちるは、僕らの”遊び”で真剣なカップルの思いを邪魔することが躊躇われたらしい。コンテストを降りるよう提案してきた。
――確かにこのコンテストそのものは遊びだとしか思っていないが、僕の君に対する思いは遊びじゃない――そう言ってみても良かったのだが、その場で言うと互いに混乱しそうだったのでやめた。僕自身、本当にそう思っているのかどうか――使命としてのパートナー以上に、彼女のことを思っているのか?――まだ自分の気持ちがはっきりしていなかった。僕は素直にみちるの提案に同意した。
ただ、僕の中のわだかまりは確実に膨らんでいた。
使命を優先しなければならないのは百も承知だ。事実、ネプチューンが滝壺に落ちたときだって、内心の焦りは抑え込んで敵に集中しようとした。
しかしあの日は、後から恐ろしいほどの恐怖に身を包まれた。
――あの時、ネプチューンがあのまま死んでいたら、僕はどうなっていた?
余計なことを一切考えず、使命に集中するだけの冷徹な戦士になれただろうか?
絶望で、何もかも嫌になっただろうか?
一人すら守れない自分が、世界を救う気になれただろうか?
僕の中で大きくなりすぎた彼女の存在と、使命に対する思いは、バランスを崩し、僕たちの距離感をおかしくする。
僕たちが引き合わされる契機となった共通の友人がターゲットとなった時は、みちると出会ったばかりの頃を思い出すきっかけとなった。
ただおとなしく優雅、才能豊かで家庭にも恵まれ、虫も殺せないであろうと思ったお嬢様。闇など似合わないと思われた彼女が、一人孤独に戦っていたことを知った日。
そして、彼女が自らの命を顧みず、自分を救ってくれた日。
あの日からずっと、僕の目には君が映っていた。
あの日からずっと、君は僕を支えてくれていた。
――ああ。そうだ。あの日から。もう運命は動き出していたんだ。
帰り道、僕はおそらく、すでに一つの決意を胸のうちに秘めていた。
「君に会えてよかった」
そう、みちるに言った。
「このままずっと、二人で走ろう」
その言葉がみちるにきちんと届いていたかどうか、定かではなかった。だけど、僕はただ、隣で一緒に走り、笑ってくれるみちるのことが心から愛おしくて好きだということを感じていた。
例え使命を優先しようとも、世の中一般的な”恋人同士”のように楽しい未来だけを考えた交際ができなくても、通じ合ってはいけないという理由にはならない。
使命を果たすのは当然のことだ。今更そこから逃げるつもりは、ない。
だけど僕は、みちるのことも求め、愛したい。