その日亜美は、仕事が終わってからまことの勤める菓子店に寄ることにした。元々帰宅路の近くにあり何度か覗いたことはあるのだが、皆との再会があってからは初めて立ち寄る。
かつて賑やかだった頃の街並みからは程遠く、ひっそりと静かで見る影もなかった。まことの店ももう閉店しているかもしれない。不安になりながら店に近づくと、シャッターが開けられ、中のライトが煌々と灯っているのが見える。
――まこちゃん、いるかしら。
ショーウィンドウから覗いてみる。中にはスタッフが数人立って話しているのが見えた。奥に立って話していたまことが、亜美に気づいて手を挙げる。
「亜美ちゃん!」
まことは大慌てで外に飛び出してきた。その勢いに驚きながら、いつも通りのまことを見ることができて、亜美は少しほっとする。
「仕事終わりかい?一人?大丈夫?」
「ええ。いつもなるべく明るい道を歩いているから大丈夫よ。まこちゃんのお店がちゃんとやっていてよかったわ」
亜美の言葉にほっとした顔でまことは頷いた。
「こんなときだからこそお菓子を食べたい人もいるかなーと思って、手に入る材料でなるべく作るようにはしてるんだ。……ま、お客さんは少ないから暇な日も多いけどね」
だからこうやってお喋りしている日も多くて、とまことは苦笑する。
「亜美ちゃんは? 病院は忙しいんじゃない?」
明るく話すまことに対して、亜美はやや疲れた表情で話し始めた。
「こんなときだから、新しい患者さんは増えたわね……。災害関連で怪我をしたっていう人も多いし、病気が悪化した人も……。パンクするほどではない、というところかしら」
今はまだ、と付け加えて曖昧に微笑む亜美を見て、まことは心配そうな顔で亜美を見つめていた。数秒考えてから、あっ、と思いついたようにこう言った。
「亜美ちゃん、今日これから家に来ない?」
まことの提案に、亜美はえっ、と驚いた顔をした。
「これからって……いいの?」
「へーきへーき。今日作れるお菓子はもう作り終わっちゃったしさ。お店にいてもお客さんも来なくて暇だし……それに二人で帰ったほうが安全だからね」
まことは手を振って軽く答え、奥にいる人物に声をかける。
「店長、今日はもう上がっていいですかー?」
店長と呼ばれた男性がこちらを見た。まことと話している亜美をちらりと見て、
「今日はもういいよ」
とにこやかに承諾する。
「じゃ、ちょっと待っててね。そこ、座っていていいから」
まことは窓辺のテーブルを指して、店の奥に入っていった。亜美は示されたテーブル席に座る。
元々この店はテイクアウトでのケーキやお菓売子販の他にカフェスペースも人気で、いつも必ずどこかの席に客が座っていたことを覚えている。今は亜美以外に客はおらず、奥のテーブルセットはしばらく使用されていないのか、椅子を持ち上げてテーブル上に置かれた状態になっていた。
まことが戻るまでの間、亜美は座って窓の外を眺めていた。穏やかな日没後の空が広がっている。冬にかけて日の入りが早くなり、徐々に寒さが増してくる時期である。本来であれば、夕飯の前の買い物や帰宅途中の人々で溢れるはずだった商店街は、ひっそりと静かでシャッターが閉まっている店も多い。この店のようにいろいろとやりくりして開いている店もあるようだが、どの店も閑古鳥が鳴いている状態だ。
……なんで、こんなことになっちゃったのかしら。
はぁ、とため息をつき、頬杖をつきながら亜美は考えていた。地球の危機の話を聞いてからずっと、自分ができることはなんだろうと考え続けていた。自分のできる範囲ではあるが、調べられることを調べてみたりもした。でも日々仕事に追われていると、つい目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまう。学生の頃は、たくさん勉強しながらセーラー戦士としての戦いだってこなしていたのに。
……そう、あの頃は。
ボロボロになりながら戦って、夢を何度も諦めそうになったし、勉強だって無意味ではないかと思うことが多々あった。でも、何故頑張ってこられたのだろう……。
亜美がぼんやりと考えていると、まことが荷物を手に亜美の元へ戻ってきた。
「お待たせ。さ、行こうか」
「……そうね」
考え事の途中だった亜美は、慌てて笑顔を取り繕い席を立った。
まことの家までは徒歩で十分ほど。途中でスーパーに寄り、買い物をした。安定した品揃えとは言えないが、品物を選べば何品か料理は作れる、とまことは亜美に話す。食材を見ながらあれこれ悩むまことは、亜美から見ると手慣れていて頼もしく見えた。
「すごいわまこちゃん。さすがね」
亜美が褒めると、まことは照れたように笑った。
「いやー、もう長いこと一人暮らしだしね。久しぶりのお客さん、嬉しいな!」
まことは張り切ってガッツポーズをする。
――まこちゃんは、こんなときでも、強い。
亜美はまことの笑顔を見て、少し胸が苦しくなるのを感じた。戦っていたときも、何度もまことのこの笑顔に救われてきた。この強さが頼もしかった。ずっと眩しかった……。
「適当に上がって。お茶出すね」
まことの家までの道のりは、亜美の家まで帰るのとそれほど変わらない距離にあるはずなのに、二人で歩く道はあっという間だった。まことは亜美を中へ促し、買った食材を持ってキッチンに入っていく。
「あ、私も何か」
亜美はまことを手伝おうと声をかけたが、まことは制止する。
「いいっていいって。亜美ちゃん疲れてるだろうし、ゆっくり休みなよ」
そう言って亜美をリビングに連れてきた。一歩足を踏み入れると、そこには数々の観葉植物が並んでいる。何度かまことの家に来たことはあったが、以前より増えているかもしれない。
「いいグリーンがあると買っちゃうんだよねー。へへ。結構落ち着くんだよ」
まことは亜美の肩をぽん、と叩いて、キッチンに戻っていった。
まことは手際よく料理を作り、数十分後には数皿の料理をダイニングテーブルに並べた。
「手に入る食材が限られるから、あんまり品数は作れないんだけど……」
まことは自信なさげに言うが、亜美は首を振る。
「十分よ。食材が手に入らない中でこんなにお料理を作れるなんて。まこちゃん、すごいわ」
亜美の言葉に、まことは照れたように笑顔を見せた。
「ありがと亜美ちゃん。冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます」
亜美はまことの手料理を口に運ぶ。一口食べて、顔を綻ばせた。
「……美味しい。とっても美味しいわ」
まことはそれを聞いてパッと顔を輝かせた。
「ほんとに? 良かったぁ! 最近人に手料理を振る舞うなんてことなかったから心配でさ」
亜美はにこにこと料理を口に運んだ。味はもちろんだが、こうして愛情のこもった温かい料理を食べたのはいつぶりだろうか。まことの手料理は、身体の内側から元気が出てきそうな、そんな味がする。
まことは自分も少しずつ料理を口にしながら、亜美の顔をちらちらと見て、こう呟いた。
「……よかった。亜美ちゃん、ちょっと元気なさそうに見えたから」
まことの優しげな瞳に見つめられ、亜美は少し恥ずかしくなって俯く。
――あまり心配させたくないと思っていたのに、まこちゃんはお見通しだったんだ。
亜美はまことに向き直る。
「まこちゃんにこんな情けないことを言うのはちょっと恥ずかしいんだけど……私、今、どうしたらいいかわからなくて」
亜美は頬を赤く染めながら、まことに話し始めた。
「本当は私も頑張らなくちゃ、って思っているの……せつなさんが一人で研究のことも頑張っているし、私も力になりたくて。
でも、目の前のことをこなすので精一杯で。……ううん。目の前のことすら、ちゃんと向き合えてないなって思うの。毎日必死で、気づいたら一日が終わっちゃってる」
亜美はそこで一旦言葉を切った。まことは先を促さず、料理を口に運ぶ手を止めて亜美の話をじっと聞いていた。
亜美はもう一度口を開く。
「お医者さんになりたいってずっと頑張って勉強してきたけど、お医者さんだってみんなを救えるわけじゃない……。救えない患者さんもたくさんいるし、そもそもこの先未来だって来ないかもしれない。自分にもっとできることがあればいいのにって、毎日悔しいの……本当はまこちゃんみたいに強くなって、笑っていたいのに」
「亜美ちゃん……」
まことは心配そうな顔で亜美のことを見つめていた。一瞬躊躇ったあと、手を伸ばして、テーブルの上に置かれた亜美の手に触れた。
「亜美ちゃんはすごいよ」
亜美は一瞬ドキッとして身体を震わせたが、触れられた手を見つめ、それからまことの顔をもう一度見る。優しい二つの瞳が、亜美を温かく見つめていた。
「亜美ちゃんはすごい。毎日たくさんの人の命を救いながら、地球の危機のことまでちゃんと考えてる。
……あたしなんて、その日のお菓子とご飯を作るので精一杯なんだから」
まことが歯を見せてへへっと笑った。亜美はその笑顔に少し元気付けられる。
「ありがとう。でもまこちゃんの料理が美味しかったから、私、今日は元気になれたわ」
「あたしの料理で亜美ちゃんが元気になるなら、いくらでも作るよ」
まことが得意げに胸を張ってみせた。亜美はまことの頼もしさに頬を緩ませる。
「ふふっ……じゃあ、毎日来ちゃおうかしら」
まことは亜美の発言に一瞬ドキッとして顔を赤く染め、照れながら返す。
「ま、毎日? ……それはあたしも腕が鳴るなー」
二人の笑い声が、グリーンに包まれた部屋で柔らかく響いた。
普段はベッドを使っているまことだが、今日は床に二枚布団を並べて寝ることにした。部屋を暗くすると、近くの街灯の灯りがカーテンの隙間から入って、部屋に線を描く。
布団に入ってしばらく、二人は天井を見つめて黙っていた。まことは、亜美が寝たのかどうか気になって首を動かしたが、暗がりの中で、亜美はまだ目を閉じていないように見えた。
「あ……あのさ。亜美ちゃん」
まことは小さな声で、おそるおそる声をかける。暗闇の中で、亜美がぴくりと動き、まことの方を見た。
「なあに、まこちゃん」
まことは亜美の方に身体ごと向いた。まことの布団の膨らみが形を変えて動く。
「その……。手を……握ってくれないかな……」
亜美が小さな声で、えっ、と驚いているのが聞こえた。
まことは言ってから恥ずかしくなり、ぎゅっと目をつむった。
「あの、ごめん。いきなりこんなこと言ったらびっくりするよね。気にしないで……」
まことがしどろもどろになりながら言っていると、布団の中に何かが入ってくるのを感じた。彷徨うように動いてから、まことの手を見つけて握る。
「はい。これでいいかしら」
優しい声が聞こえた。暗くて見えないが、まことには亜美が微笑んでいる様子が感じられた。
「……うん。ありがとう」
亜美の温かく柔らかい手を握り返す。亜美の手は繊細で優しく、温かな気持ちが手を通じて伝わってくるように思えた。
まことはその手を握りながら、ぽつぽつと話し始めた。
「本当はあたしも、すごく怖いんだ……」
亜美は言葉こそ発さないが、手を柔らかく握り返すことで反応していた。まことはそれを感じて安心しながら、言葉を続ける。
「やっと自分の夢に近づいたと思ったら、こんなことになっちゃってさ……だけど、何か今回は敵を倒せば解決するってもんじゃないし。
それでもさ、お菓子を買いに来てくれる人には笑顔になって欲しくて、頑張って作ってるんだ。と言うか、それしかできないんだ。
一日一日、終わりの時に近づいてるっていうのに、お菓子を作るくらいしかできないんだ、私……」
「まこちゃん……」
亜美が小さな声で反応した。
まことの手は微かに震え、その震えが亜美にも伝わってくる。
「あたしたち、あの頃はずっと敵と戦ってきた。うさぎちゃんを守って、みんなを守って、地球の未来を守ってきたと思ってたんだ……。
でも、そんな未来が来ないかもしれないって言われて、悲しくて、不安でっ……。
あたしたちが守ってきたものって、いったい何だったんだよっ……!」
それほど大きい声ではないものの、叫ぶような悲痛な声が部屋に響いた。亜美とまこと、互いが握る手に力が籠る。夜になりひんやりと冷えてきた部屋の中で、布団の中の二人の手だけが熱かった。
亜美は身体を捻り、繋いでいなかったもう一方の手をまことの布団に忍ばせた。両手でまことの手をしっかり包み込む。
「まこちゃん」
亜美のしっとりとした声が、まことに届く。小さくて繊細だが、優しく、落ち着く声。まことは気恥ずかしくて、上を向いたまま黙って手を握られていた。
「話してくれてありがとう。……私ったら自分のことばかりで、ごめんね」
「ううん……。亜美ちゃんがいてくれたから……。今日はすごくほっとした。最近ずっと気を張ってたんだなって気づいたよ」
話しながら、まことは気持ちが緩んでくるのを感じた。亜美が握ってくれる手や、優しくかけてくれる言葉には、強ばった心を融かす力があるのではないか。そう思えた。
「まこちゃんには、いつも助けられてきたわ。あの頃もそうだったけど、今だって……。
まこちゃんはずっと強いなって思ってた。だけど……。
まこちゃんも、みんなに助けてもらってもいいのよ」
亜美の言葉に、まことははっとする。
――そっか。あたし、いつもみんなの頼りになる存在じゃなくちゃ、って思ってたのかもしれないな……。
戦士として戦っていた時も、今も。自分が誰かを支えられる存在になりたかったし、そうすることが自分の役割なのだと思ってきた。
でも、ずっとそうしていられるわけではない。笑いたくても笑えない日がたくさんあった。辛くて戦いから逃げようとした時もあった。そんな時でも、たいてい誰かが手を差し伸べて、導いてくれたのではなかったか。……今こうして、亜美に手を握られるように。
まことはぎゅっと目を閉じた。そうしないと、いろいろな思いが溢れてしまいそうだったのだ。
暗闇の中、亜美に片手を預けて、しばらくじっとしていた。
やがて心が解きほぐされ、身体の力が抜けてきたのを感じたので、まことはそっと目を開ける。最近重苦しく感じていた自室の空気が、今日は温かく柔らかい。
亜美に握られていた手をもう一度握り返すと、亜美が優しくその手を撫でてくれた。
まことも身体を動かして、亜美の方を向く。
「ありがとう。亜美ちゃん」
亜美はまた、返事の代わりにまことの手を握る。互いの温もりを感じながら、二人は眠りについた。