そしていま、はるかの手によって救い出されたみちるは、安宿ではるかに組み敷かれ、彼女をじっと見つめていた。はるかがみちるを婚約相手から引き離し連れ去る間、みちるは一言も言葉を発しなかった。
「……どこも、触られてなんかないわ」
怒りで震え、息を乱すはるかに、ようやくみちるは答えた。
「嘘だ! だって! みちるっ…………、服が」
はるかは頭が沸騰しそうなほど煮えたぎっていて、言葉をうまく発することができなかった。なぜならホテルに乗り込んだ時、婚約者はみちるに馬乗りになり、服を半分以上脱がせかけているところだったからだ。それを見た瞬間はるかの頭にはカッと血が昇り、無我夢中でみちるの上に乗る男を突き飛ばしてそのままみちるの手を引いて逃げ出した。外に出る前に一応はるかのジャケットを上から羽織らされたが、みちる自身が身につけていた衣服はいまもぐちゃぐちゃに乱れたままだ。
興奮で唾を飛ばさんばかりの勢いで話すはるかに、みちるは目を伏せ、つぶやいた。
「……ごめんなさい…………でも、大丈夫だから」
その声が震えていることに気づき、はるかはハッとした。そして次の瞬間には、声だけでなく彼女の身体にも細かい震えが走っていることに気づいた。みちる自身も急に力が抜けたようになって、パッと自らの顔を腕で覆う。
「ごめんなさい……はるか、本当に……、ごめんなさい…………」
身体を震わせながら、みちるは啜り泣くように小さな声で謝り続けた。
みちるは怖かったのだと、その時はるかはようやく気づいた。
頭に昇り切った血が、サーッと音を立てて落ちていくような気がした。自分の感情を思い切り彼女にぶつけてしまったことを、激しく後悔した。みちるの頬や身体や髪をやさしく撫で、慰めてやりたいと思ったけれど、身体がこわばってしまい、動かない。今さらになって口の中がカラカラに乾いていることに気づいて、はるかは押し黙った。思い切り膨らんだ風船が急に勢いを失って萎むように、はるかの身体からみるみるうちに生気が抜けていくような気がした。
沈黙は、しばらく続いた。
やがて、みちるは顔を上げた。
「身体にはほとんど触られていないの。本当よ。…………キスは……、されたけど」
最後の一言は少し言いづらそうに、やや苦々しげにそうつぶやいて、みちるは口元を拭うように手の甲で擦った。婚約者の前でみちるの唇を美しく彩っていたであろうリップグロスは、とうに剥げている。いつもであれば素のままでも美しく見える彼女の唇も、今日は乾いて生気を失っていた。
はるかは堪らず、みちるに口付けた。対面してわずか数時間でもう夫婦となった気になってみちるの唇を奪い、身体まで支配しようとした卑しい悪魔。一刻も早くみちるをそこから連れ出したい一心で出てきてしまったが、もっと痛めつけてからホテルを出るべきだったと、はるかは頭の中で毒づく。みちるに残る穢れた痕跡を早く消し去りたい、そんな気持ちで、はるかはみちるの唇を貪った。
「……あとは? どこ? ぼくが全部綺麗にする」
はるかは食ってかからんばかりの勢いでみちるに尋ねた。みちるはおずおずと首元に触れる。直接触れられたわけではないが、婚約者に唇を奪われる直前、首元や耳周りに息遣いを感じてざわついた気持ちを思い出したのだ。
はるかは親指でみちるの頬をそっと撫でてから、耳の周りの髪の毛を指で梳いた。流れるまま指先で耳許に触れる。それだけでみちるはぴくんと身体を震わせた。思わず熱いため息が漏れ出る。張り詰めていたみちるの心はようやく安堵し始めたのを感じ、また目尻から熱いものが流れた。
過剰なほど敏感に反応するみちるに、はるかは若干戸惑ってもいた。あいつに対してもそんな反応を見せたのか? ――嫉妬心から、そんな心無い言葉が口から零れそうにもなった。しかし、涙を流し身体を震わせるほどに怖がっていたみちるが婚約者に対して好意的な反応を見せたとは思えなかったし、何よりあえて彼女に嫌なことを思い出させたいとは思わなかったから、ぐっと堪える。
そのまま首筋に指を滑らせると、みちるはきゅっと目を瞑り、唇を噛み締めた。はるかの心に僅かな不安と、場違いな期待が生まれてしまう。怒りで震えていた数分前とは一転して、違う種類の興奮が湧き上がるのを抑えきれなかった。
今夜、このままみちるを抱いたら、一体彼女はどうなってしまうのだろう?
そう思うほどに、みちるの反応が初心で可愛らしく感じてしまったのだ。
「みちる……」
はるかはみちるの耳許に唇を寄せて囁いた。みちるは薄く目を開ける。淡い金髪に、仄暗い照明が当たって透けて見えた。はるかの息遣いを間近に感じる。婚約者に感じたざわつきとは大きく異なる、期待と安心を抱かせる優しい吐息。みちるもまた、先ほどまで抱いていた恐怖とは異なる震えを、身体の奥底に感じたのだった。
「大丈夫?」
はるかは囁く。
それは「このまま続けても良いか」を確認する意図だと、みちるは気づいた。はるかはきっと、怒りと衝動に突き動かされてここまで来たであろうに、みちるが傷つき壊れることを恐れ、その勢いのまま彼女を抱こうとはしなかったのだ。
はるかの想いが喜ばしく、思わず頷きそうになったが、慌てて首を振る。
「はるかこそ」
はるかはその発言と態度を不思議に思って眉を顰めた。
「だってわたし、あなたを裏切って…………今夜、違う人に抱かれようとしたのよ? ……最低よ。汚いわ。なのに、はるかは」
堰を切ったように口から溢れ出た言葉を、はるかの唇が温かく塞いだ。
「もう言うな」
はるかはみちるの上に跨り、見下ろしながら首を横に振った。みちるが自分を裏切ったとか、汚いとは思わなかった。それが本意だったとは当然思っていなかった。ただ、彼女にそう言わしめた運命は憎らしいと思った。唇を噛み、俯く。細められた目の奥が光るのが、みちるからもわかった。
みちるが先ほど指し示した首元に、はるかはもう一度触れた。みちるはまた身体を震わせ、熱いため息を零したが、瞳の奥には覚悟の色も見える。はるかは唇を近づけた。
「ふっ…………あっ」
みちるの首筋に、ぬらりと柔らかい感触が走った。足先から背筋まで、何か鋭いものが走る感覚を味わった後、身体がぎゅっと燃えるのを感じた。
先ほどまで、みちるはただひたすらに、心を殺していた。婚約者に触れられ、キスをされても、全く何も反応することはなかった。拒絶もしなければ、積極的に受け入れることもしなかった。そんな自分を、男慣れしておらず身を固くしている、純粋で可愛らしい処女なのだと、喜んで抱こうとした婚約者を、蔑んだ目で見つめていた。
今夜、海王みちるは死んだ――いや、今夜ではなくもっと前だ。そう、はるかに別れを告げた日。あの日、海王家の命運を左右する自らの婚約により、心も、身体も、これまで生きてきた自分は殺されたのだ。そしてもう二度と会うことはない。そう思っていた。
だから――、
いま、声を上げたのはいったい誰だろう。
身体を熱くしているのはいったい誰なのだろう。
「ふぅんっ! ……ああ、あぁっ……! はるか……」
二週間前に殺し、捨ててきたはずの自分の声が、戻ってきた。はるかに触れられ、熱く燃え滾る身体が、確かにここにある。自分に重なるはるかの背におずおずと腕を回すと、はるかはそれに応える。二人はぴたりと密着した。
「はるか……ああ、んんっ……はるか……」
自分を抱くのが愛するその人あることを確かめるがごとく、みちるはその名を何度も呼んだ。
「みちる……みちる……」
はるかはみちるの首に舌を這わせながら、時折彼女を求めるように呼ぶ。耳許を掠める低く甘い声だけで、みちるの心も身体も痺れる思いがした。