ホテルの一室に入るなり、はるかはみちるをベッドの上に乱暴に組み敷いた。
「……あいつに、どこをっ……触られた⁈」
はるかは怒り狂って身体全体から熱を発しているようだった。みちるは潤んだ瞳でそれを見つめるが、怯えてはいない。ただ、はるかの問いに答えることはなかった。
「答えろっ! みちるっ‼︎」
薄い壁に反響し、はるかの声は虚しく響く。
古びた、安っぽいホテルだった。照明は演出のために暗くされているというより元々の数が少ないようで、さらにところどころ節電のためか外されていて、とにかく暗く寂れている。それでもホテルである以上、ベッドシーツが洗濯され綺麗であるという最低限の条件は守っているが、そのシーツももう何年も利用された古いものであることは間違いない。
そこは二人がこれまでに利用したどのホテルよりも利用金額の安いであろう、所謂庶民向けのラブホテルだった。フロントに人がおらず、タッチパネルで空いている部屋を選んで入る方式だったのは、いまの二人にとって好都合だった。
天王家、海王家それぞれが融通して入れるホテルはいくらでもあるから、本当ならあえてこんなホテルに入る必要はなかった。しかしはるかがそうしなかったのは、自分たちの消息を断ちたかったからだ。
つまり、なるべく足の着かない場所に行きたかった、ということだ。
事の発端は二週間前。
はるかはみちるに、突然別れを告げられた。理由は、「はるかといると将来が見えないから」だった。法律上結婚もできず子どもを持つこともできない、それだけでなく、はるかが関わるモータースポーツは収入面で不安定な上に命懸けであり、将来を約束するパートナーの条件として不安定すぎることまでも指摘された。
突然のことに驚き、信じられず、はるかはしばし呆然とした。そんなことで諦めるほどに自分たちが乗り越えた障壁は低くなかったはずだし、育んできた愛情が軽いものだとは思わなかったが、全く反論の余地がなかったのも事実だった。みちるはこれまで自分のパートナーが同性であることなどまるで気にしないようでいたけれど、それだって心変わりする可能性がないとは言えなかった。
とは言え、それまでに予兆らしい予兆はなく、はるかは頭を殴られたような気持ちだった。みちるはほぼ一方的に別れを告げて連絡を断ち、はるかは為す術もなかった。
しかし数日後、はるかはみちるがなぜ突然別れを告げたのかを理解した。みちるが、ある青年実業家と婚約したという事実を知ったのだ。
その青年実業家は、父親も官僚として財を築き名を馳せている人物だが、自身も事業を立ち上げて軌道に乗せ、いまや複数企業のCEOを掛け持っている。絵に描いたような成功者だ。海王家とも数多くの取引を行っていたとのことだから、政略的な縁談と考えて全く不思議はない。
みちるはこれまでも、数多くの縁談を持ちかけられては断り続けていた。縁談を断るたびに、みちると同じくらい知名度の高いはるかとの関係も噂されていたから、ある意味では世間や両家庭に二人の関係が公認されていたと言える部分もある。
しかし、海王家にとってそれも所詮は子どもの戯れ、お遊びと捉えられていたようだ。
みちるが婚約したのは彼女の二十歳の誕生日の前々日。はるかとの別れを告げたのがさらに少し前の二月下旬。つまりみちるの両親は、みちるが二十歳になったらはるかとの関係を断ち切り、政略結婚をさせるつもりでいたのだった。
みちるの誕生日当日、両家が正式に顔を合わせてから二人はディナーを共にし、初夜を迎える段取りであると、はるかは知った。そう都合よく予定を知ることができたのは、これまでに関係を築いてきた海王家の人物がはるかに融通し、情報を流してくれたからだった。
二人の関係をお遊びと捉えずに真剣に応援していた人たちは数多くいる――その事実に背中を押されたはるかは、みちるを奪還するために単身、ホテルに乗り込んだのだった。