出かける前にみちるがクローゼットを開けてざっと確認したが、はるかは普段から男性のような服装も好んで着ていたから、持っている洋服のほとんどはそのまま着ることができそうだった。男性の身体になっても、身長や体重や体格は大幅に変わってはいないようだ。ただ、胸周りや肩周りがタイトなシャツは、女性として着ていた時とややサイズ感が異なるようだった。それから下着。そのままだと締め付けを感じるのが気になったため、新調することにした。
百貨店の紳士向け下着売り場に物怖じせず入っていき、はるかをぐいぐいと引っ張るみちるは、妙に頼もしさを感じる。出会った頃のお嬢様らしい彼女からは想像ができなかった。しかしあの頃も、エルザを通じて声をかけたり、船上パーティに招くなどしてはるかと積極的に接触しようとした過去があるから、みちるが見た目以上に、そして自分以上に行動派であることを、はるかはなんとなく知っていた。
はるかがそんな過去の回想にふけるうちに、みちるはさっさと下着売り場のスタッフに声をかける。ここはみちるがプライベートで何度も足を運んだことのある高級百貨店であり、馴染みの店員も多くいる。ここで選んだであろう紳士向けの服やアクセサリーのプレゼントを受け取ったこともあったが、さすがに紳士向けの下着売り場を彼女が歩いた経験はないはずだ。あからさまな態度は見せないものの、周囲のスタッフに好奇の色が浮かぶのをはるかは感じた。
みちるは手際よくスタッフに希望の商品を伝え、はるかの希望もさりげなく確認しながら、驚くほどの早さで買い物を済ませた。みちるに任せきりであることにはるかは若干の情けなさを感じたものの、ここは買い物に慣れているみちるに任せた方が早いだろうと判断し、あまり多く口を出さないでおいた。
おかげで変な気まずさを抱くこともなく、買い物はスムーズに終了した。
買い物の後に喫茶店にでも寄ろうということになったのだが、みちるが少しだけ百貨店の化粧品売り場を見たいと言う。すぐに終わると言ったから、はるかは店の外で待つことにした。
売り場を過ぎ行く人々、主に女性だが、化粧品売り場の前で荷物を持ったまま立っているはるかに視線を向けて去っていく。中にはあからさまに歓喜の声を上げる者もいた。はるかの容貌は元々目を引くから自然なことで、彼女自身慣れてはいたのだが、今は何とも居心地が悪かった。
いまここにいる自分は本当の自分ではない。偽の姿。傍目には今までとほとんど変わらない姿に見えるはずだけれど、人々の視線は、はるかがその衣服の下に隠す偽の姿を透かし見ているような気がしてならなかった。
「……くそっ」
早く原因を見つけてどうにかしたい。しかし相変わらず敵の気配は感じない。はるかは思わず苛立ちを口にし、小さく地面を蹴った。
その後みちるは、言葉通り十分少々で買い物を済ませ、はるかの元に戻ってきた。喫茶店で休憩する最中にもみちるは頻繁に深海鏡を覗くが、これと言って変化は見られなかった。
はるかの身に起きた出来事を振り返ったが、ヒントとなる出来事も思い浮かばなかった。昨夜はいつも通りに就寝し――みちると愛し合う時間も特段いつもと変わらず、当然ながらみちるははるかの身体が女性であったことを見ており――その後は朝まで目覚めることはなかった。今日はモーターレースに関わるはるかも、ヴァイオリニストであるみちるも共にオフで、起きた時間はそれほど早くなかった。当然だが、戸締りはしているから不審者が入った形跡もないし、もし身体に何か施されていれば、さすがに気づくだろう。そもそも、寝ている間の数時間のうちに、何の違和感もなく性別が変化しているなど、現代のどんな薬や医療を持ってしても有り得ない。何かしらの不思議な力が関わっていることは間違いない。
しかし一つだけ、はるかの脳内には、気になる記憶が残っていた。
「前世の夢を見た、気がする」
「前世?」
はるかは黙って頷く。それはかなり抽象的で薄ぼんやりとした記憶であり、今回の事象を到底結びつくことはないと思っていたから、朝みちると会話していた時には思い至らなかったのだ。
ただ、その夢の中ではるかは、今の自分ではとても及ばないほどの強い力を持っていて、身体が現世の自分とは違うことを認識していた。夢の中と現実世界、事象は異なるものの、どちらも自分の身体が本来の自分とは違うことを認識するという共通点があったことに、はるかはなんとなく引っ掛かりを感じていた。
とは言え、具体的に原因や解決のいとぐちはまったく見えそうにない。
「手がかりがない以上、どうしようもないわね……」
ここまで振り返ってみちるが言えるのはそれだけだった。はるかが手にしていたコーヒーカップを置くと、カチャン、と鋭い音が鳴る。それほど強く響く音ではないが、彼女から焦りと不安が滲み出るのを感じ、みちるは俯いた。
ここで話をしていても何も変わらない上、一目に晒される場所に立っている時ほどではないが、外にいる以上ははるかの落ち着かない気持ちも収まらない。結局二人はそこで長居することはなく、早々に家に帰ることになった。