それはまさに、青天の霹靂と言うにふさわしい出来事だった。
特段変わったことのない、いつも通りの朝。
目が覚めて、寝ぼけ眼のままシャワーを浴びるために服を脱ぎ、ぼんやりとしたまま鏡の前に立ったはるかは、鏡に映し出された自分の姿を見て、何が起きたのかわからず、呆然としてしまった。
「えっ、あ?! ……う、うわぁ!」
堪らず上げてしまった叫び声は、後からはるか自身が思い出すと情けなくて恥ずかしいものだったと思う。しかし、あの場ではそう叫ぶことしかできなかった。それほどに唐突で、信じられない出来事だったのだから。
「はるか? どうしたの?!」
驚いたみちるがバスルームに飛び込んできたから、はるかは咄嗟にバスタオルで身体を隠し、背を向けた。何故そうしたのかは自分でもわからない。が、何となく見られてはならない気がした。
「いや……えっと、ごめん。なんでもない……」
必死にバスタオルを押さえながら、目も合わせずにしどろもどろに答えるはるかの姿は、どう考えても「なんでもない」ようには見えない。みちるは眉を顰めたあと、黙ったままはるかを見つめた。その顔にはあからさまに「本当?」と問う表情が浮かんでいる。
はるかはバスルームの鏡越しにその表情を見てから、バスタオルに包まれた自分の身体を一瞥する。なんと口にしたら良いか迷って、首だけみちるの方へ向けたあと、一言だけ呟いた。
「か、身体が」
振り向いたはるかが予想以上に狼狽えていたため、みちるも思わずたじろいだ。訝しむ表情から一転し、はるかを心配するような表情に変わる。
はるかは意を決して、 バスタオルを下に向けてずらした。下半身は隠れたまま、胸元が露わになる。
そこに現れた、よく引き締まり程よく筋肉のある胸元を見てみちるは思わず両手を口許に当てた。
「はるか……」
そこには確かにあったはずの女性特有の膨らんだバストはなく、引き締まった胸筋に覆われた、雄々しい胸元が広がっていた。
「まったくわけがわからない」
みちるにその場を外してもらい、はるかは一度脱いだ服を再び身につけ、リビングに戻ってきた。
端的に言ってしまえば、女性であるはずのはるかの身体は、男性になっていた。何の前触れもなく、突然。みちるに直接見せるのが憚られたため先ほどは隠していたが、当然の如く下半身も変化している。
あまりに不可思議な事象に、はるかは狼狽を隠せないままみちるを立ち去らせ、みちるも何も言えないままその指示に従った。今まで多くの敵と戦い、不測の事態に対応してきた二人でも、今回の出来事はさすがに理解の範疇を超えており、反応に困った。はるかはみちるのいなくなったバスルームで自らの身体をしげしげと眺めてみたが、そのあまりの変貌ぶりに軽く目眩を起こしかけ、シャワーを浴びるのを止めてリビングに戻ったのだった。
「一体何が起きているのかしら」
みちるは手に深海鏡を持って呟いた。セーラー戦士である二人が不可解な事象に遭遇したら、まず疑うのは新たな敵の出現だ。最近は大きな敵との戦いが一区切りし平和な日々が続いていたが、いつ何が起きてもすぐ気づけるように、みちるはいつでも手元に鏡を置いている。
しかしみちるの鏡は、特に反応を示す様子はなかった。それ以前に敵の気配を感じれば直感的な胸のざわつきにより気づく可能性も高いが、二人ともそれを感じていなかった。
「敵じゃないなら、何か変な薬でも飲まされたか? あるいは土萠教授みたいなマッドサイエンティストでも現れて、僕の身体を勝手に改造したとかね」
正確に言えば敵に精神と肉体を奪われて人格の変容を起こしていたため、土萠教授その人が狂気を持っていたわけではないが、つい数ヶ月前まで戦っていた大きな敵に関連する一人でもあったその名前が出され、二人の間の空気は自然と重くなる。はるかは口調こそ冗談ぽく吐いて見せたが、目の奥はまったく笑っていない。みちるははるかの言葉に表情を変えず俯いた。
「それか」
はるかは天を仰ぐようにソファに凭れた。軽い苛立ちと諦めが見て取れる。
「実は僕は雌雄同体生物で、いつでも身体を変えられるようになっていたとか?」
「……まさか」
皮肉るように呟いた言葉に、みちるはそう返すことしか出来なかった。
二人は無限学園での戦いが終わってから、恋人としての関係を持つようになった。それ以前も互いに好意を持っていることを知りながら、戦士としての使命を優先させるためにそれぞれの気持ちを隠しながら過ごしてきていたから、戦いが終わったことで二人の距離が縮むのは自然なことだった。当然のように肉体関係も持った。二人にとって、愛した相手の身体に触れ、感じ合うことは自然なことだった。
一般的に男女の恋人同士が結ばれれば、多くの場合その先には結婚というステップがあり、肉体関係を持つことは生物として子孫を残すことを意味する。二人が関係を持った時点で、そう言った男女の恋人同士が描く未来はなくなったわけだが、特に不安も不足もなかった。二人でいられればそれで良いと、心から思っていたから。
とは言え、これまでにそういった未来を二人がまったく意識しなかったわけではない。例えば最後の戦いが終わったあの日。赤子の姿になった土萠ほたるを父親の元に返す前に、みちるは驚くほど母性に溢れた表情で彼女を抱いた。みちる自身も、ほたるを抱きながら感じる温かな気持ちに心が緩むのを感じた。そしてそこに、二人が結ばれなければ、あるいは二人の性が異なっていればあったかもしれない未来を感じずにはいられなかった。
はるかの皮肉的な発言は、その時に二人が抱いた気持ちを初めて言葉にした瞬間でもあった。
はるか自身が男性になりたいという願望があったかどうかで言うと、答えはノーだ。多少なりとも考えたことはある。しかし、自らが女性であることを嫌悪したり、強い意志で男性になりたいと願ったことはない。どちらかと言えば、自分の生活やアスリートとしての立場上、「男性である方が都合が良いのではないか」としばしば感じたことがあるというだけだった。その度に、女性であることをハンディとしないはるか自身の能力を発揮することで、迷いを打ち消してきた。
みちるとの関係で生まれた迷いも同様に、だ。
つまりこれは、自分の意志とは到底程遠い事象であり、喜ばしいとは思えない出来事だった。自分の身体が自分のものではないように感じられ、自身の身体に触れて確かめてみることすら躊躇った。衣服を身につけて落ち着いた今もまだ受け入れがたく、嫌悪感さえも感じる。自分自身ですらまだそういう状況なのだから、みちるに全容を見せようなどとはとても思えなかった。心と身体を許した恋人同士であっても、だ。
黙って俯き、唇を噛むはるかに、やや明るい口調でみちるは言った。
「ねえ、そのままだと困ることもあるでしょう。少し買い物に行かない?」