王室内に、重苦しい空気が漂っていた。ここ最近はずっとそうだ。地球国からクイン・メタリアにより圧力をかけられるようになり、平和な月の王国にも危機が迫っている。
この状況を知りながら、プリンセスが地球国の王子エンディミオンに夢中なのも一因だ。もちろんクイーンや他の戦士たちの忠告や説得で彼女も表立った行動は避けるようにしているようだが、逆に密会という形で会う頻度が増えているのは、ルナも知っていた。
「ルナ、アルテミス」
張り詰めた声で呼ばれたある朝。クイーンの声に緊張感を感じた二匹は、即座にクイーンの元に駆け寄った。
「どうされましたか、クイーン」
「ウラヌスが、力を使いました」
クイーンの表情には、明らかに疲労感が漂っていた。本来であれば宿命の戦士が力を使うことは喜ばしいはずなのに、彼女からはまったくその雰囲気を感じない。ルナが違和感を感じて眉を顰めていると、アルテミスが口を開いた。
「では、プリンセスがお世継ぎを?」
どうやらアルテミスは、違和感には気づいていないようだ。相変わらず鈍いわね――そう言って彼の横顔をどつきたくなったが、クイーンの目の前でそんな事をするわけにはいかない。ルナはアルテミスをひと睨みするに留め、黙ってクイーンに視線を戻した。
「……いいえ。ウラヌスが力を使った相手は、プリンセスではなかったようです」
「えっ? では誰なのですか?」
ルナはアルテミスの察しの悪さにどこまでも呆れ軽くため息をついたが、クイーンは明言しなかった。疲労感を浮かべた顔のまま、二匹を黙って見下ろす。
「では、宿命はどうなりましょうか」
口を閉じたクイーンに、ルナは質問を変えて尋ねた。クイーンは何か思い悩むように一度顔を上げ、遠くを見る。その方向に見えるのは窓、そしてさらにその外にはプリンセスが憧れる地球。
クイーンは一度ため息をついた。そこからは、まるで内に秘めた想いを吐き出そうかと言うように、重々しくゆっくりと口を開いた。
「私もかつては、宿命の戦士の力によりあの子を授かりました」
これまでに彼女が過去の話を事細かに話したことはない。特に宿命については、王国でもごく一部の者にしか知らされないものだったから、ルナも世継ぎを授かるための任務であるという程度のことしか知らなかった。クイーンが遠い記憶の扉を開けたのだと感じ、ルナは背筋を正す。
「宿命の戦士の力が使われると、使われた者は王宮から出られなくなります。新たな命が宿った身体は、月を離れてはならない。月と宿命の戦士の守護を受けながら、世継ぎを大切に育んでいくのです」
クイーンの深く緩やかな声は、どこか遠くの国の物語を語るかのような趣深さを孕んでいた。心地良さを感じる反面、クイーンの表情との不釣り合いな柔らかさに、言いようのない空恐ろしさも感じる。
「逆を言えば」
クイーンは声色の柔らかさをそのままに、視線をやや鋭くした。ルナは、わけのわからない自分の不安が形になってゆくのを感じた。
「月から離れれば、命を育むことはできない」
「それは、つまり」
ルナは反射的に声を挙げていた。クイーンはルナに視線を向ける。感情を消し去ったような瞳の色に、ルナはどきりとする。
「ネプチューンの中で新たな命が育まれる前に、二人を追放します」
低い声でクイーンは言った。ルナは絶句する。
月の王国の民は寿命が長く、それほど頻繁に新たな命の誕生を迎えることはない。王家の者たちと違い、宿命の力を必要とせず、太陽系の各惑星や小さな星々で生まれ、月へやってくる命がほとんどだ。
しかし、頻繁に迎え入れることがないからこそ、それらの命は歓迎され、大切に受け入れられていた。だから、命の可能性を棄てるとも言えるクイーンの発言に、ルナは強いショックを受けた。
「……追放、ですか」
「表向きはそれぞれ天王星と海王星に戻り、外敵から太陽系を守る任務ということになります」
クイーンは淡々と語った。決断の重さの割にあまりにも冷静に感じられる言葉だった。
「ネプチューンに新たな命を育ませることは……」
「彼女は王家の者ではなく戦士ですから」
ルナが言いかけた提案を遮るよう、クイーンは即座に首を振った。
その表情と態度からルナは悟る。これは二匹に対する相談や不確定事項ではなく、すでにクイーンにて決定されたことなのだと。
「ウラヌスに本来の任務は遂行させないのですか」
アルテミスが問うと、クイーンはまた押し黙り、軽く俯いた。ウラヌスの処遇に関してはもしかしたらまだ迷っている部分があるのかもしれないと、ルナは感じた。ウラヌスのみを王宮に残し、プリンセスに対し任務を遂行する可能性も、まだ残っているということだ。
しかしクイーンは、首を振ってもう一度言った。
「二人を追放します。これはもう、決められたことです」
「……わかりました」
ルナとアルテミスはそれだけ言ってクイーンを見つめていたが、やがて彼女の元を去ろうと背を向けた。クイーンの表情が、もうこれ以上語る気を感じさせないものだったためそうしたのだが、王室を出る直前に後ろからクイーンの言葉が追いかけてくる。
「ネプチューンの中の宿命の力が絶えたら、二人はまた呼び戻します。…………それまで王国が無事であれば」
「……はい」
最後に添えられた一言に不穏な空気を感じながら、ルナは王室を後にした。
「しかし驚いたな」
王室から出てすぐ、アルテミスが呟いた。アルテミスの方を見ると、彼は心底真面目な表情でルナを見つめて言う。
「ルナは知ってたか? ウラヌスとネプチューンが通じ合うような仲だったって」
「……あなたって、本当に鈍いのね」