「ねえ、聞いた? プリンセスにそろそろお世継ぎをという話が出ているって」
翌日ネプチューンと顔を合わせたウラヌスは、開口一番にネプチューンに囁かれ、飛び上がりそうなほどに驚いた。口外してはならないと言われた話を、そうも簡単にネプチューンが口にするとは思わなかったのだ。
平静を装って、ウラヌスは返した。
「……いや。どこでそんな話を?」
「噂よ」
悪戯っぽく微笑むネプチューンにウラヌスは内心胸を撫で下ろした。実際のところ、前日にクイーンに告げられた内容で頭がいっぱいだったから、それが知らず知らずのうちに自分の態度に出てしまっていたのではないかと不安に思っていたのだ。
ネプチューンは、プリンセスとの距離が近い他の戦士から聞いたのだと言った。
「プリンセスは最近、地球国の王子に夢中だそうよ。だからクイーンも、早くお世継ぎを作るべきだと思ったのではないかしら」
その言葉に、ウラヌスはなるほどと思った。それであればこのタイミングで自分が呼ばれたことも、クイーンが地球の暦を気にしていたことも説明がつく。
ひとり考えるウラヌスをよそに、ネプチューンはどこか残念そうな表情で遠くを見つめ、続けた。
「でも、プリンセスが不憫だわ。愛する人と結ばれることができないで、お世継ぎだけを求められるなんて。王家の運命と言ってしまえばそれまでかもしれないけれど」
ネプチューンの言葉に、ウラヌスはどこか引っ掛かりを覚え、彼女の横顔を見つめた。愛する人と結ばれなければ不憫であるという、自分が思いもしなかった考えをネプチューンが持っていたことに、驚く気持ちがあったのかもしれない。少なくとも自分は、命を受ければそれを遂行しなければならないと思っていた。そこに愛や本人の意思は関係なく、考える必要もないことだと思った。
いつもウラヌスとは違う考えを持ち、ウラヌスが興味のないことにも興味を示す彼女の横顔が、どこか眩しく見える。
「あら、どうかしたの?」
ウラヌスが見つめるのに気づき、ネプチューンは頬を赤らめて微笑んだ。ウラヌスも何故か顔が熱くなるのを感じ、ぷいと目を逸らす。
「いや。……訓練、始めようぜ」
月の王国の戦士たちは、国を守るための戦闘訓練や学習をしたり、王国の歴史を学ぶことはあっても、どのように王家が繁栄し、世継ぎを迎えていたかという具体的な内容を学ぶことはなかった。知らなくても良かったからだ。
改めて侍者から伝え聞いた内容に、ウラヌスは戸惑った。これまで他者との関係をほとんど強いられることなく過ごしてきた自分が、一定期間プリンセスと夜を共にすること。そしてそこで行われる行為の内容。求められていることがこれまでとあまりに違っていた。それが自分に与えられた使命だから、やらなければならないことなのだと思っていたが、どこか釈然としない思いも抱えていた。
ただ、これまでに他者と深い繋がりを持つことなく生きてきたウラヌスには、心の中に沈む澱のようなその気持ちを、自分でも上手く表現できずにいた。
「なあ、ネプチューン」
クイーンとの謁見から数日経ったある日、ウラヌスは訓練の後にネプチューンに声を掛けた。
「なあに」
「今夜さ、一緒に寝てくれないか?」
ウラヌスから飛び出した思いがけない依頼に、ネプチューンは目を丸くした。それからその目をぱちぱちさせたあとに、頬を赤く染める。
「どう……したの? ……あ、もしかして、寂しくなっちゃった?」
誤魔化す意味も込めて茶化すように言うと、今度はウラヌスの方が目を丸くし、俯いた。
「ちがっ…………いや。でも、まあ、そんな感じかな」
否定しかけたものの、しっくりくる理由も見つからず、ウラヌスはそう言った。まさか肯定されると思わず、ネプチューンはまた目を瞬かせる。それからくすっと微笑んで言った。
「いいわ。わたしの部屋にいらして」
王国で暮らす戦士たちは、一人ひとつずつ部屋を与えられていた。だから普段、夜を共にすることはない。ウラヌスはネプチューン以外の戦士とほとんど関わりがなかったし、彼女とは訓練でよく顔を合わせるから、あえて訓練後の時間に部屋を行き来するようなこともなかった。
「ヴィーナスなんかは、よくプリンセスの部屋に呼ばれて、夜遅くまで話をしているらしいわよ」
寝具を整えながら、ネプチューンは言った。これから関わらなければならないプリンセスの名前が挙がり、ウラヌスはどきりとする。自分たちよりもプリンセスと近い戦士たちが存在することを、ウラヌスはすっかり忘れていた。
「プリンセスと」
「そう。昔からプリンセスのお傍にいて、一緒に育ってきた仲みたいだから。それこそ、この前の地球国の王子の話も、そうやって夜のおしゃべりで聞いたのだと思うわ」
ふうん、とネプチューンに適当に相槌を打ちながら、ウラヌスは考えていた。プリンセスに現在どこまで具体的な話が伝えられているかはわからないが、いずれ自分の存在をプリンセスに近い戦士が知ることになるかもしれない。そう思うと、どこか落ち着かない気持ちがした。
クイーンに求められた任務なのだから堂々としていればいいのだが、その内容は秘め事のようだった。人に言ってはいけない。見られてはいけない。夜な夜なこっそりプリンセスの部屋に通い、彼女を抱かなければならない。実行前から緊張感で息が詰まりそうだった。
「さあ、できたわ。いらっしゃいな」
あれこれ考えている間に、ネプチューンはウラヌスをベッドに招く準備を整えていた。先に彼女がベッドに入ったのを見て、ウラヌスも続く。
一人であれば手足を広げても余裕があるくらいの十分な広さのベッドだが、二人では当然そうもいかない。壁側の端に身を寄せているネプチューンは、どこか遠慮していて狭そうにも見えた。ウラヌスも逆端のギリギリに身を横たえる。
「……狭いもんだな」
「当たり前じゃない」
ネプチューンは、今更気づいたのかとでもいうようにくすくすと笑う。
「でも、嬉しいわ」
「嬉しい?」
ネプチューンの言葉が意外で、ウラヌスはふいと首を横に傾けた。ネプチューンの横顔が思った以上に近く感じ、慌ててまた真上を向く。その拍子に、ウラヌスの手がネプチューンに触れた。あるいはネプチューンの手の方が近づいてきたのかもしれないが、どちらなのかはわからない。お互い、びっくりしたように手を震わせたが、引くことはなかった。なんとなくブランケットの中で手を触れ合わせたまま、二人は話を続ける。
「訓練以外で、ウラヌスがこうやって傍にいることが、よ」
ネプチューンはそう言って微笑みながら、ウラヌスの方に顔を向けた。言われてみれば確かに、二人は訓練や学習の時間以外に顔を合わせることは滅多になかった。
ネプチューンはそれを「嬉しい」と表現した。ウラヌスはそのことが不思議だった。逆に自分は、ネプチューンが傍にいることでどう感じているだろうか。
彼女の表情や声は、自分を安心させてくれる。他の戦士とはほとんど交流もなく、たまに対面しても何を話せばいいかわからないが、ネプチューンとは自然に会話ができる。いつも顔を合わせているのだから改めて話すことなど多くはないはずなのに、訓練のことや学習のこと、それから他の戦士との会話や自由時間の出来事、食事中の出来事など、彼女とならいくらでも話すことができた。
だが、改めてこうやって二人きりで身を横たえてみると、落ち着くというよりは緊張した。ネプチューンですらこれほどドキドキするというのに、プリンセスと夜をともにした時に、自分は落ち着いて任務が行えるのだろうかと不安になる。
ウラヌスはちらりと視線を動かし、ネプチューンの様子を窺った。ネプチューンは少しだけウラヌスの方に首を傾けて、静かに目を閉じている。それはこれまでに見たことのない、安心しきった顔にも見えた。
その表情を見ていたら、急にウラヌスの頭がカッと熱くなった。頬や耳までも一気に熱を持ったような気がする。緊張で軽く高鳴っていた心臓も、一段と鼓動を強めたようだ。
今までネプチューンの傍にいて、こんなに気持ちが変化したことがあっただろうか。彼女の部屋のベッドで、いつもよりも近い距離にいることが、自分をここまで昂らせているのだろうか。
思わずネプチューンに顔を近づける。ほんのりと漂う花のような香り。クイーンやプリンセスが大切に育てているという王宮の花壇の香りに似ていた。ウラヌスは興味がなかったが、もしかしたらネプチューンはよく足を運ぶのかもしれないと思った。
よく見知っているはずのネプチューンが、急に見慣れない、遠い存在に感じた。
そしてそのことは、思いがけずウラヌスの気持ちをざわつかせた。ずっと一番近い存在だったはずなのに、彼女は気づかないうちに自分とは違う香りを漂わせ、自分が知らないプリンセスや他の戦士の話をするようになっていた。今までそんなことはまったく気にならなかったというのに。他人にこれっぽっちも興味のなかったウラヌスがこんな感情を抱くこと自体が珍しく、それは彼女自身を戸惑わせた。
よりネプチューンの表情がよく見える角度に顔を上げる。白い肌はほんのりと紅を差したような色で、触れなくても弾力と滑らかさが伝わって来るようだ。先程まで会話していたからまだ寝入っていないはずだが、ウラヌスに見つめられていることに気づいているのかいないのか、目を閉じたままだった。長いまつ毛が綺麗な扇形を描いて、頬に影を落としている。艶やかな唇は、いつも鏡で見る自分とはまるで異なる造形に見えた。
それからの数秒間の出来事は、ウラヌス自身も覚えていないし、どうしてそうしようと思ったのかも覚えていない、が。
気づけばウラヌスは、美しさに見蕩れた彼女の唇に、自分のものを押し当てていた。それがプリンセスとの交合の作法の中で行われるものだと知ったのはつい最近のことで、本来は愛情表現のひとつであることも知らぬままに。
視線は吸い込まれるがままにネプチューンに向けられていたから、ウラヌスは目を閉じることも忘れていた。彼女の唇に触れた瞬間、ネプチューンがパッと目を見開くのが目に入る。あからさまに驚きを浮かべた碧い瞳に、なぜかウラヌスも驚いてしまい、慌てて唇を離した。
「ウラヌス、今っ」
驚いた表情のまま、ネプチューンはそう言った。半分身体を起こし、ウラヌスを見つめる。ほんのりと紅色だった頬の色はみるみるうちに濃くなっていき、瞳は潤み、戸惑いの色を浮かべていた。
「ああ…………うん」
ウラヌスは曖昧に返事をした。自分の行動をどう説明すべきか、自分でもよく分からなかった。その結果二人は、しばしの間無言で見つめ合うこととなる。ネプチューンの目は、まっすぐにウラヌスを見つめていた。彼女の瞳の色がこれほど深く美しい色であることを、ウラヌスは今まで気づかなかった。
黙ったままのウラヌスに痺れを切らし、ネプチューンはため息をついて俯いた。ウラヌスから目を逸らしても、その視線が泳いでいることはわかる。どう言おうか迷った様子でしばらくそうしていた後、ネプチューンは口を開いた。
「あのね、ウラヌス。こういうことは、好きな人にするものなのよ」
ネプチューンの発言に、今度はウラヌスが驚く番だった。
「そうなのか」
目を丸くするウラヌスに、ネプチューンは呆れた様子でため息をついた。
「知りもしないでよくこんなことしたわね」
もちろんウラヌス自身は、知りもしない行為をしたつもりはなかった。王国で生きる上で必要な、限定された知識と興味の範囲の中で、ネプチューンの言うキスの意味をウラヌスが知らなかったというだけで。ただウラヌスにとってそれは、任務を遂行する上で得た知識の一部という認識でしかなかったのだ。
ネプチューンが深く追及しないことを理由に、ウラヌスはこれがクイーンに伝えられた任務を行う上で得た知識であることは言わなかった。それを伝えると、口外してはならない任務のことまで追及されかねない。
しかし、ネプチューンの視線は納得していないのは明らかだし、ウラヌス自身も自分がこのような行動に出たことが意外で、暫し考え込んでその理由を探す。それから、ゆっくりと口を開いた。
「それなら僕はネプチューンが好きだ…………多分」
「多分って、何よ」
ようやく出されたウラヌスの答えに、ネプチューンは不服そうに眉を寄せ、唇を尖らせる。
「よく分からないんだ。好きというのが。でもきみを見てたら、止められなかった。だから僕はきみが好きなんだと思う」
ウラヌスの言葉に、ネプチューンは不満げな表情から、また見る見るうちに眉を下げ、頬を赤く染めていった。
「なによ、それ。好きだからキスしたんじゃなくて、キスをしたくなったから好きってこと?」
ウラヌスはこくりと頷いた。ネプチューンの声は震え、信じられない、と言いたげな表情だった。
「あなたって本当に…………いえ、でも、そうね。こういう生活だから、無理もないかもしれない」
ネプチューンは独り言のようにそう呟いてから、どこか諦めとも言える表情で俯いた。ウラヌスはネプチューンが一人で呟き納得したことにまたもやついていけず、怪訝な顔つきで彼女を見つめる。
「何言ってるんだよ」
「あなたが思った以上に無知で鈍感だって気づいただけよ」
「無知? 鈍感?」
ウラヌスは、ネプチューンの話の核心を捉えることができていなかった。ただ、自分の行動と発言がネプチューンを戸惑わせ、呆れさせていることだけは伝わってくる。
「きみを不快にさせたなら謝るよ。ごめん」
ウラヌスが謝ると、ネプチューンは表情を明るくするどころか、ますます悲しげに眉を下げた。
「謝らないで……逆に悲しくなるわ」
「……ごめ、ん」
ネプチューンは悲しげな表情のまま、またベッドに横になった。ブランケットに包まって、背を丸めてウラヌスに向ける。その背中から、もうウラヌスと会話する気がないことが明らかだった。
ウラヌスは腑に落ちないまま、小さくため息をついて自らもまた身体を横たえた。それからもう一度、先ほど自分が起こした行動とその後のネプチューンの表情を省みる。
自分がやったことは間違っていたのだろうか。なぜ、気持ちが抑えられなかったのだろうか。それに対する答えは出なかった。
ただ、悲しげなネプチューンの表情が瞼の裏に焼き付いているようで、目を瞑っても離れることはなかった。眠ろうとするとその表情が思い返される。背を向けるネプチューンに、ちらちらと何度も視線を投げかけた。彼女はずっと壁側を向いていて、静かな呼吸音に合わせて小さく肩が動いているのがわかった。
これは任務のために必要な行為だ。つまり、今後プリンセスに同様にキスをすることになる。プリンセスもまた驚き、呆れるのだろうか。それとも彼女はそれが任務に必要なことだと知っていて、驚くことなく受け入れられるのだろうか。
ウラヌスは急に、不安な気持ちになった。強い敵を想定したいかなる訓練でも迷うことなく戦い、任務を受け入れてきたウラヌスが、自分がどうしたらいいかわからない状況になるとは、思いもしなかった。