その夜、はるかはそれまで使っていなかったゲストルームの扉を開けた。掃除が行き届いた部屋とシーツがピンと張られたベッドは、誰かに使われるのを今か今かと待っているようだった。窓の外は暗い。昨日二人が寝ていた部屋とは方角が異なり、こちらからは月も海も見えなかった。
はるかに少し遅れて、みちるが部屋に足を踏み入れた。はるかが振り返る。
「今日みちるはこっちの部屋を使うといいよ。僕は昨日の部屋で寝るから」
「ええ」
このコンドミニアムにやってきてから、二人は海がよく見える開放的な部屋を好んで使っており、当然のようにベッドも共にしていた。海を好むみちるの性格を考えれば、引き続き海側の部屋を彼女に使ってもらう方が良いとはるかは思ったのだが、何度か二人で睦み合った後のベッドを何も知らない彼女に使わせるのは気が引ける。それに、昨晩みちるが月を見て苦しんだことも気がかりだった。確証は得られていないが、あの発作がみちるの記憶喪失に関わっているのではないかと、はるかはなんとなく感じていた。だから今日は夕食のあとも早々にコンドミニアムに戻り、就寝までの時間は月明かりの届かない室内で過ごしていたし、寝る時も月の見えない部屋をみちるに充てようと思ったのだった。
「何かあればいつでも声をかけて。おやすみ」
いつものように、みちるを抱き寄せて額に優しくキスを…………落としたくなったが、ぐっと我慢し、はるかは微笑みだけを残して部屋を去った。
部屋に一人残されたみちるは、しばらくベッドに腰掛けたまま、今日一日のことを思い返していた。充実した一日だった。朝から驚くような出来事もあり疲れていないと言えば嘘になるが、はるかと過ごした一日はとても楽しかった。昨日までの自分の中にはるかの記憶が残っていないことが信じられなかった。二人で過ごした時間は、みちる一人で過ごすバカンスの何倍も楽しかったからだ。
そしてはるかに、今夜はお互い違う部屋で寝ようと提案された時に、みちるは少しだけ寂しい気持ちを抱いた。たった一日過ごしただけの相手を信用するほどみちるは無用心ではなかったけれど、いざはるかが隣から離れると、どことなく支えを失ったような、心許ない感じがしたのだ。とは言え、一緒に寝ようと提案するほど心を開くこともできておらず、みちるははるかの提案に従い、案内された部屋のベッドにひとり、潜り込んだ。
頭の中を巡る考え事はたくさんあったけれど、疲れていたせいか自然と眠気が訪れる。昼間よりもずっと遠くに聞こえる波音を辿りながら、みちるは深い眠りに引き込まれていった。
その夜、みちるは夢を見た。彼女はぴたりと身体に密着するスーツのような衣服を身につけていた。身体を動かすと、胸元と腰回りにひらひらとした布がはためくのを感じる。手には重みのあるひんやりとした金属製の物体。鏡だ。美しい装飾が施され、煌めいている。見覚えがあると思ったが、どこで見たのかは思い出せない。
身体の奥底から、不思議な力が湧いてくるのをみちるは感じた。なんと表現すれば良いのかわからないが、身体の中で水が渦を巻いているような心地だった。……そう、水流だ。水流が、自分の身体を巡っている感覚。それから身体が勝手に動き出して、みちるは腕を上に高く掲げていた。すると驚くことに、大きな水球が、上空に向けた手のひらの上に出来上がっていくのが感じられた。目の前に向けて腕を大きく振ると、水球は瞬く間に自分の手から離れて地面を滑り、みちるから遠く離れた場所まで飛んでいってしまった。
自分は一体何をやっているのだろうと思っていると、隣に誰かが立った気配がした。見上げるとそれは、自分と同じように身体にぴたりとフィットする衣服を纏った、金髪の背の高い女性だった。みちるの方を見て、ふっと優しく微笑みかける。
みちるはその女性のことを知らなかったが、何故か彼女が隣に立つと安心感を覚えた。みちるが彼女に微笑み返したところで、夢はぼんやりと霞み、消えた。
みちるは目を開けた。外は薄明るくなってきたばかりのようで、カーテンの隙間から淡い光が届く。遠くから優しい波音が聞こえてきて、みちるは心がほぐれるのを感じた。
みちるの頭の中から、夢で見た出来事はすっかり消え、その後彼女が思い出すことはなかった。