「私たち、ここに来てからどうやって過ごしていたの? 海水浴をしたり買い物をしに行った覚えはあるのだけど……」
しばらくして海岸に現れたはるかに、みちるは尋ねた。滞在中、みちるは一人で旅行を楽しんだ記憶はあったが、はるかとどう過ごしたのかはもちろん覚えていない。
「そうだな……海水浴や買い物は君の記憶通りだ。君一人で行った時間もあったけど、僕も一緒について行ったりもした。それから、ドライブかな」
「まあ、あなた、運転できるの?」
はるかの言葉に、みちるは目を輝かせた。今日初めてみちるが表情を明るくしたように見えて、はるかはほっとする。
「うん。今日も行く?」
はるかがポケットからキーを取り出してみちるに問うと、返事の代わりにみちるが満面の笑みを浮かべ、デッキチェアから立ち上がった。
二人が滞在する島は外周路が整備されていて、一時間ほどで一周できる。この旅行中すでに何度か走っていたが、道中ずっと海が見えるためみちるはとても気に入った様子だった。今日もその道を選ぶことにして、はるかは車のエンジンをかける。現地で借りたものだが、はるかの所有する車に似た仕様のオープンカーは、南の島の穏やかな風を受けて走るのにぴったりだった。
「私はよくあなたにドライブに連れて行ってもらっていたのかしら」
手馴れた様子でみちるを助手席に招き入れた上で車を発進させたはるかに、みちるはおずおずと尋ねた。
「ああ。僕が持っている車で、よく一緒にドライブしたよ。帰ったらまた」
はるかはそこまで言いかけて口を噤んだ。
――帰ったら、また? どうするというのだろう。
この旅が終わったあと、みちるは自分の傍にいてくれるのだろうか。みちるの記憶は、そして自分たちの関係は、どうなっているのだろうか。そもそも今も、あのコンドミニアムを追い出されることもなく、みちるが自分の隣にいることが不思議なくらいなのだ。この先みちると一緒にいられる保証など、どこにもない。
はるかが逡巡する間に、みちるが微笑んで言った。
「また、連れて行ってくださる?」
不意を突かれた気持ちで、はるかは一瞬目を丸くしてみちるの方を見た。大人びた表情の中に、出会ったばかりの頃の少女のような初々しさが浮かんでいるように見え、はるかは思わずドキリとする。運転に集中するフリをして正面を向き、軽く息を吸ってから答えた。
「ああ。……君が望むなら、どこへでも」
この島に来てから数回目のドライブも、記憶の中では初めてのようで、みちるは新鮮な表情で流れていく景色を見つめていた。みちるの話や態度からわかったことだが、どうやらこの旅行中の出来事は、ドライブのようにはるか主導でないと行動できない出来事は記憶に残っておらず、ショッピングや食事など一人でも体験できる出来事は、二人で過ごした時間も一人で過ごしたものとして記憶しているようだった。事実がひとつひとつ明るみになるたびに、自分との思い出がみちるの中に少しも残っていないことにはるかは悲しい気持ちを抱かずにはいられなかったが、一方で、初めてドライブに連れて行った日を思い出すようなみちるの表情を見ていると、気持ちが高揚するのも感じた。もう戻れないはずのあの日を再体験している気持ちになり、はるかは思わず頬を緩ませる。
みちるの記憶に自分だけが存在しなくても、やはり自分は彼女の幸せを一番に願い、笑顔でいることを望むのだ。自然とそんな気持ちが、はるかの心に灯った。
もしこの先みちるが自分のことを思い出せなかったとしても、この笑顔を曇らせることがあってはなるまい。はるかは眼前に広がる海に向けて密かに誓った。
みちるが数日間一人で過ごした島の生活も、二人で再体験すれば新たな思い出となる。二人はその日、既に足を運んだ店や観光地を再び訪れた。残念ながらみちるの記憶の回復には繋がらなかったが、純粋に観光を楽しむことができ、互いの心の靄も少し晴れたように感じた。
ディナーはサンセットを見ながら、海岸沿いのレストランで楽しんだ。この店は初日にも二人で訪れていて、その際みちるが気に入っていた、魚介類をふんだんに用いた料理を再び注文することにした。
「うん、やっぱり美味しいわ」
「味付けがシンプルで魚の旨味がよく出ているよね。活きもいい」
にこにこと食事を口に運ぶみちるを見て、はるかが思わず初日にみちるが口にしていた感想を繰り返すように返した。みちるは目を丸くして驚く。
「まあ。はるかは私の気持ちがよくわかっているみたい。私も同じことを考えていたわ」
「そりゃ、みちるのことなら何でも」
そう言ってからはるかは「しまった」と思う。美しい風景と美味しい食事に酔いしれてつい口が緩み、いつもの調子で答えてしまった。案の定、みちるは恥ずかしそうに俯いている。はるかは慌てて弁解した。
「あ……えと。ほらこれ、この前食べた時にも君がとても気に入っていたようだったから、印象に残っていて」
みちるは黙ったままこくりと頷いた。反応に困っているのははるかの目にも明らかで、しばらくの間気まずい沈黙が続いた。
せっかくいい雰囲気で一日を過ごしていたというのに台無しじゃないか、とはるかが頭を抱えそうになった、その時だった。
「なんだかあなたばかり私のことを知っているみたいで」
みちるがぽつりと呟いた。波音と重なり憂いを孕んだその言葉に、はるかは思わず顔を上げる。
「私ばかりが、あなたのことを知らなくて……」
ほとんど水平線に沈みかけた夕陽の、淡く消えかけたオレンジ色に染まるみちるに、過去の彼女の表情が重なる。
――私はあなたのことを、あなたよりよく知っているの。
潤んだ瞳で、息も絶え絶えにはるかにそう伝えたみちる。今とは真逆の状況のはずなのに、なぜかあの日のことがはるかの脳裏に蘇った。
瞬間、はるかは口を開いていた。
「僕も、そうだったんだ」
「え?」
「君ばかりが僕のことを知っていて。僕はみちるのこと、何も知らなかった」
そこからみちるのことを知っていく過程を思い返すと、はるかの胸は痛んだ。度重なる戦いの中、互いに傷つき、傷つけあうこともあった。最終的には互いの恋愛感情を認めあったけれど、使命を優先する中で多くの葛藤もあった。
でも、どんな時でもみちるは、はるかのありのままを受け入れて、必死で守ろうとした。だから。
「それでもいい」
みちるが傍にいてくれるのであれば、どんな状態でもはるかは彼女を受け入れ、守る。みちるの記憶の中にはるかが存在するかどうかは関係ないのだ。
みちるははるかの瞳を黙ったままじっと見つめていた。みちるの頬を染めていた夕陽は、気づけば水平線の下に潜り、辺りはしっとりとした夕闇に包まれ始めていた。それでもみちるの頬は依然として柔らかく紅潮し、薄暗い海辺に光を灯すように浮かんでいた。
みちるの心の中で、確実に何かが動く音がした。けれどその気持ちをどう口にすればいいのか、自分でもまだわかってはいなかった。