みちるは海辺に広げられたパラソルの下、デッキチェアに座っていた。朝から驚きの連続だった。突然知らない女性の腕の中で目覚めたあと、その人は知った風な口で自分に話しかけてきたのだ。しかも、自分はその人を随分前から知っているにも関わらず、忘れてしまったのだと言う。
正直なところ、簡単には信じ難い話だったのだが、彼女の話や様子には何点か気になるところがあった。
まず、彼女が中学時代から無限学園に通っていた時期のみちるについて、随分詳しく知っていたこと。それから、みちるの物だという鏡やスティック状のアイテムも、記憶にはなかったが何故か目を引いた。それらは「セーラー戦士」というものに関わっているらしいが、その単語も妙に耳に残る。話の最中に何か思い出せそうな気がしたのだが、頭に靄が掛かったようにぼんやりして、はっきりとはしなかった。
何より、はるかという相手の女性に、みちるは自分でも驚くほど心が惹かれるのを感じていた。顔も名前も知らない状態で一夜を共にし、会話も噛み合わない、不審な存在であるはずなのに、見ていると胸が高鳴るのがわかるのだ。相手の相貌の美しさが目を引いたという事実はあるものの、ただ美しいだけの相手であれば、幼い頃から社交界に出て多くの人間と会ってきたみちるにとっては珍しくもなんともないはずだった。
もちろん、それだけの理由ではるかを完全に信頼することはできなかったが、自分の記憶が何らかの理由で失われたおそれがあるという事実を受け入れるには、十分な理由となった。
はるかとの会話は結局噛み合わないまま中断され、みちるは胸のざわつきと違和感、そしてどこかすっきりしない気持ちを抱えていた。
こういう時みちるは、日課であるヴァイオリンを弾くことで心を落ち着かせる。しかし今日は、どれほど演奏しても音に気持ちが乗らなかった。演奏の技術としては申し分なかったと思う。ただ、ひとつひとつの音に躍動感が生まれ、自分がヴァイオリンと一体になるようないつもの感覚はやってこなかった。傍で聴いていたはるかは見事だと褒めてくれたけれど、どこか自分に気を遣っている様子に見えた。
落ち着くはずだったみちるの心が、より一層ざわつく。はるかとろくに視線も合わせず、みちるは外に出た。
明るい空と真っ青な海、輝く白浜に迎えられ、みちるは自然と頬が緩むのを感じた。
みちるは小さい頃から海が好きだった。海辺に住んでいたわけでもなく、海に縁もなかったのに。納得できる理由を見つけられた時期があった気がするのだが、それがいつだったのか、そしてその理由が何だったのか、今は思い出せない。それほど大事なことではなかったのだろうか。それともこれは、失われたと思われる記憶に関連することなのだろうか。
せっかく外に出たのに、また考え始めてしまい気分が晴れない。みちるは思い切って白浜を走り出した。海に向けて、全力で。熱く光る砂を蹴りながら、浅瀬に思い切り飛び込んでいく。パシャパシャと水が足に当たる感覚が心地よく、みちるは立ち止まった。遥か遠く、白い雲がふわふわと漂う水平線を眺める。
心が急に、すーっと晴れていくのを感じた。ここに来れば自分は還かえってきたのだとみちるは思う。自分が自分でいられる場所。そう思えるだけで、今は十分だろうとみちるは思った。