次の日も二人は、取り立てて予定を決めず、気の向くままに過ごすこととした。みちるの記憶喪失の件がなくとも二人はここに来てから毎日そうしていたから、特に不便も不満もなかった。
朝食後はいつも通り、みちるはヴァイオリンを弾いた。リビングの窓を全て開け放ち、目の前に広がる海を見ながら、彼女は弾き始める。はるかもソファにかけ、目を瞑り、みちるの奏でる音の海を漂った。
前日、彼女がヴァイオリンを弾くのを聴いた時に、はるかは少しだけ違和感を感じていた。と言っても、毎日みちるのヴァイオリンを聴いていたはるかでしか絶対に分かり得ないであろう、ささくれのようなわずかな引っかかりだ。技術的な劣化は全く感じられず、きっとみちるが朝からの出来事で混乱していたために、いつもの調子が出なかったのだろうと思った。
しかし今日のみちるの演奏は、完全に元通りになっていた。ああ、これは“いつも”のみちるの音なのだと、はるかはソファに身を沈めながら、深く深くその音色を堪能する。その余韻の重さに、演奏が終わってからもしばらく、はるかは目を閉じてソファに座っていた。
「……はるか?」
躊躇いがちに発せられた呼びかけに、はるかはハッと顔を上げた。
「ああ、ごめん。君の演奏があまりに良くて。絶好調だね、みちる」
「よかったわ。ありがとう」
演奏を終えた後のみちる自身の表情も、昨日とは段違いに良い顔つきだった。続けて何か言葉を発しようとしているように見えた彼女に、はるかは自分が座っていたソファの半分を譲るような仕草で横にずれ、みちるに座るよう促す。みちるは応じて、はるかの隣に座った。
隣にかけた後も、みちるはすぐに話し出そうとはしなかった。軽く俯き、指先を擦り合わせて、なんと言おうか迷っている様子だった。ただ、はるかから見えたその横顔があまり後ろ向きな表情には感じられなかったため、はるかは急かさず、みちるの言葉を待った。
「こう言ったら変に思われるかもしれないけど。今日は、はるかのことを思い浮かべて、演奏してみたの」
「え、僕を?」
「そう、あなたを」
唐突なみちるの発言に、はるかは驚いた表情を隠せず、あからさまに目を丸くする。次の瞬間には、頬がカッと熱くなる感覚も覚えて、思わずみちるから目を逸らした。
「えっと、その、なんで僕を?」
みちるはまた一度俯いたあと、真っ直ぐにはるかを見つめた。
「昨日は演奏していても、なんだか何かが物足りない気がして……私、以前はもっと、誰かを想いながら演奏していたと思うの。でもそれが誰なのか、昨日はわからなくて」
みちるの言葉に、はるかは一度逸らした視線をみちるに戻した。彼女は碧く光る瞳を真っ直ぐにはるかに向けている。
それは、今まさに窓の外に広がっている海に似て、はるかに穏やかなさざ波を運んでくる。
みちるはそれ以上を語らなかった。そこでにこやかに微笑んでみせ、ソファから立ち上がって窓辺に立つ。窓から射し込む光を浴び、淡い翠の髪が煌めく。はるかは思わず息を呑んだ。時がほとんど止まったかのように感じられる。ただ、穏やかな波音とゆるやかな風が、かろうじてそうではないことを物語っていた。否、無意識のうちにこのまま本当に時が止まればいいのにと思ったせいで、そう感じたのかもしれない。
女神だとか天使だとか、在り来りの言葉では示せないような神秘的な美しさを、みちるは秘めていた。はるかの目の前のその人はいま、はるかがよく知るみちるではなかった。だけどそれは、記憶が失われて異なる人格になったように感じた昨日の朝とも違う感覚だった。
みちるははるかのことを思い出したわけではない。けれどはるかのことを想うことで、みちるの本来の力を取り戻すきっかけとなった。それが意味することの大きさを、二人は言葉にせずともそれぞれの心の中で噛み締めていた。
ヴァイオリンを弾いたあと、みちるは今日もドライブがしたいと言った。彼女は前日のドライブを心から楽しんでいた様子だったから、はるかも快諾した。
基本的なコースは前日と同じだが、今日は途中でやや内陸部の道を通り、途中の店でランチをとることにした。海岸沿いの道を逸れると、木漏れ日の差し込む上り坂の並木道が続く。ゆるいカーブをいくつか曲がったところに、目当ての店はあった。
「まあ……!」
車を降りてからのみちるの第一声は、感嘆に満ちていた。いつの間にか荘厳な崖の上に立ち、眼下には壮大な海が広がっていたのだ。この旅で初めて訪れた場所に、はるかも思わずため息とともにその景色に目を奪われた。
「行こう。中から見える景色も最高らしい」
暫しその景色を堪能したあと、二人は中に入った。
海鮮料理中心で楽しんだ昨夜のディナーから一転して、今日は新鮮な肉と野菜をたっぷり用いた自家製料理を楽しむことが出来た。近くに主人が持つ牧場と畑があるらしく、小さいながらもこだわりを持った料理を出しているのだと、主人は誇らしげに説明する。
「ハネムーン? あとでデザートをサービスするね」
主人は最後にはるかに向けてコソッと呟くと、片目を瞑ってキッチンに戻っていった。
ハネムーンか。はるかはみちるに悟られないようこっそり苦笑いする。内心はそのつもりで旅行にきていた。つい一昨日までは。新たな生活に向けての輝かしい幕開けと言うよりは、どちらかと言えば使命から開放された自分たちを労う意味の強い旅行ではあったけれど、それでも自分たちがここまでの戦いで深めてきた絆と関係を省みる、大事な旅だと思っていた。
今はみちるの目に自分がどのように映っているかもはっきりしない。朝のヴァイオリンの一件は、確実に二人の距離を近づけたが、これまでの二人の軌跡を振り返るには到底足りない。ハネムーンどころか、みちるがはるかを再び恋愛対象として認識するかどうかすら分からない。二人で過ごす時間を楽しみながらも、些細なことで自分たちが置かれた状況に気付かされる。
そんなはるかの憂いは、主人が後から持ってきたケーキと共に添えられた「愛する二人に幸あれ!」の一言で、飛んでいってしまったのだけれど。