リビングのソファにみちるを座らせ、はるかはキッチンにコーヒーを淹れに行った。寝室と同じ方角に位置するリビングの窓は、解放感溢れる大きな窓から真っ青な空と海、白浜が続くのが見えて、みちるの表情が軽く緩んだのが見て取れる。ケトルから湯気が出てくるのを眺めながら、はるかは先ほどまで寝室でみちると話した内容を反芻する。
みちるは、自分自身が何者であるかを認識していた。海王みちる、ヴァイオリニストで画家。出自や中学生卒業までの記憶は、問題なく彼女自身の経歴と一致していた。
しかしそれ以降の記憶は、一部抜け落ちている、あるいははるかの知る記憶とは異なる事実を記憶していた。通っていた中学校と同じ系列の私立の女子高への入学する直前に、芸術的才能をスカウトされ無限学園への入学を決める。しかし不慮の事故により学園は崩壊。今は元々入学予定だった高校に戻るまでの一時的な空白期間に、一人で旅行をしに来たと言っていた。昨晩の出来事は特に不自然に記憶が抜け落ちているようで、いつ床に就いたか覚えていないようだった。
何より驚くべきは、はるかのことを覚えていないだけでなく、彼女がセーラー戦士としての記憶も一切失っていたことだった。はるかよりも先に戦士として覚醒し、はるかの覚醒のきっかけとなったその人であるにも関わらず、だ。先の発言の通り、自らの武器の一つである深海鏡の存在はもちろんのこと、変身するために肌身離さず持っていたリップロッドにも覚えがないと言っていた。
たったの一晩であまりに変化した状況に、はるかはどうすれば良いか、そしてどこから説明すればいいのかわからなくなってしまった。そもそも、自分が正しくてみちるが変わってしまったと言えるかどうかすらわからなかった。自分の方が何かに化かされているとか、何らかの理由で本来生きる世界とは違う世界に飛ばされてしまったとか、そういう可能性だってあるのだ。
いずれにしても考えられるのは、敵の出現だ。しかしそれを察知する能力に長けているみちるとは、いま話が通じない。はるか自身も、風の騒ぎを感じていなかった。
ある程度みちるの状況を把握して、どうすることもできないという事実がわかったところで、はるかの腹の虫が鳴り出したため、朝食をとることにしたのだった。
コーヒーと、トースターで軽く温めたパン、それからスクランブルエッグを作ってトレイに乗せ、みちるの元に運ぶ。みちるは遠慮がちに微笑んでから、ソファの真ん中から少し端に向けて身を寄せた。はるかは自分を招いてくれたものと判断し、みちるから少し間を置いて腰掛ける。
「あの……私は一人で旅行に来たと記憶しているのだけど」
「ん、ああ、えっと……僕は」
「私に、こんなに仲のいいお友達がいたのね。なのに忘れてしまうなんて」
敏いみちるは、はるかと対面してすぐ、はるかが自分を騙そうとしているわけではなく、自分が本来の記憶を失っている状態であると理解した。普通なら記憶に存在しない人が目の前に現れて馴れ馴れしく話しかけてくれば、自分の記憶ではなく相手を疑うものだが、はるかの必死の訴えから感じ取るものがあったのだろうか。あるいは、昨晩の出来事を含め、自分の記憶に不自然な抜け落ちがあることに気づいたせいもあるのかもしれない。
「気にしないで。……改めて、僕は天王はるか。僕も無限学園に通っていたんだ。よろしく」
朝起きてからずっと不安そうな表情が拭えないみちるに、はるかは余計なことを考えさせるまいと、柔らかく微笑んで右手を差し出した。みちるは少しだけ頬を緩めたあと、それでもまだ強ばった表情で、そっと自分の右手を返した。
みちるに自分との本来の関係を伝えるべきかどうか、はるかは少し悩んだ。恋愛関係であることはもちろんのこと、戦士としてパートナーだったことも含めて、だ。しかし、起き抜けのみちるの様子を見る限り、自分たちが恋愛関係にあるとは到底思っていないようだから、伝えるべきではないだろうと判断した。はるかのことを覚えているならまだしも、覚えてもいない人間、それも同性と恋愛関係にあったなどと言われても、混乱を深めるだけだろう。戦士に関しての記憶も、みちるが忘れていることを全て伝えるには時間がかかりすぎる。
みちるが都合よくはるかのことを友達と認識したため、しばらくはその関係を維持し、彼女の記憶の回復を待つ。はるかはそう決めたのだった。