みちるの問いは、柔らかくゆったりとした空気の南国にいることを一瞬で忘れてしまうほど、はるかに強い衝撃を与えた。はるかは思考が追いつかず、目の前に立ちすくむみちるの姿を、上から下まで眺める。そう、先ほどみちるがはるかに向けて投げかけた視線と同様に。薄手のワンピースに身を包んでいたみちるは、気まずそうに視線を落とした。その様子は、普段はるかの前にいるみちるとはまるで違った。
彼女はみちるだけど、みちるではない。
「今……なんて? みちる」
「言った通りです。私は、あなたがどこのどなたなのか、存じ上げませんの」
「嘘、だろ」
俄には信じられない言葉に、はるかはまた言葉を失った。
思考が目まぐるしく変化する。これは敵のせいか。昨日みちるの身に起こった発作的な症状が関係するのだろうか。不安そうな表情のみちるに、何と声を掛ければいいのだろうか。
はるかが黙っていると、みちるはぼそりと呟いた。
「あなたは私のことを知っていらっしゃるのね。それに」
みちるはそこまで言って口を噤んだ。その様子に、あれ、とはるかは思う。みちるがほんのりと頬を染めているように見えたのだ。
「その……一緒のベッドで、寝るほどの仲なのかしら」
窺うような視線で言いづらそうにするみちるに、はるかはその場の状況に似つかわしくないと分かっていながら、彼女の可愛いらしさに抱きしめたい気持ちになってしまったが、それを振り払うように慌てて手を前に出して振ってみせる。
「ああ。でも安心して。変なことはしてない」
昨日はね――その余計な一言を飲み込んで、はるかは微笑んだ。
意外なことに、はるかのその言葉にみちるは一瞬きょとんとしてみせ、一拍遅れて、恥ずかしげに染めていた頬の色をより一層濃くした。そして一瞬目を伏せてから、おそるおそる、といった様子でこう尋ねる。
「あの、こう言ったら失礼かもしれないけど……あなた、女性……よね」
みちるの視線はまた、はるかの頭の先から足の先まで撫でるように動く。そこではるかは、先ほどみちるが自分を見て何かに気づいた様子だったことを思い出し、納得した。
なるほど、みちるの様子から察するに、彼女ははるかが女性だから、あえて肉体関係の潔白を示そうとしたはるかの発言に意外性を感じたらしい。
もちろん女性同士だから百パーセント身の安全が保証されたとは言えないし、みちる自身もそれはわかっているだろう。彼女の視線を見れば、自分がどこのどいつかわからない状態であることに変わりはないというのは、はるかにも一目でわかる。しかし、見ず知らずの人間と一晩を共にしたという事実を目の当たりにして、その相手が男性ではなく女性であったというのは、みちるの心に与える不安感を多少なりとも和らげる事実となったに違いない。
みちるの反応は、これまでの彼女のはるかに対する態度と大きく異なることを表しており、はるかを困惑させた。みちるの今の態度は、彼女がはるかについて、女性であるから、自分と肉体関係を持つ存在ではないと判断したと言える。これまでのみちるの価値観や二人の関係性を覆し、彼女がやはりいつものみちるではないことを如実に示しているようで、はるかの心に少なからずダメージを与えた。
とはいえ、混乱する状況下で、自分がみちるにとって少しでも信頼されやすい存在である、つまり自分が女性であるという事実は、はるかにとってささやかながら悪くない状況と言える。はるかは生まれて初めて、自分が女性であって良かったかもしれないと、少しだけ感じた。
自分の性別がどちらであるべきか、どちらが良いのか、ということは、はるか自身はあまり深く悩んだことがなかった。もちろんこれまでの人生の中で全く考えなかったわけではないが、考えたところで自分は自分であるという事実に行き着くだけだと気づいてからは、あまり意識しなくなったのだ。
皮肉なことに、今回女性であることに得を感じた理由となったのが、交際を始めてからはるかを性別という括りで見ることなど一切なかったみちるその人であった――その事実には、苦笑いをせざるを得ないわけだが。
昨日は何もしなかったけど、僕はベッドで乱れる君の姿を知ってるんだぜ――そう言ったら彼女はどう反応するだろうか。はるかの心に一瞬だけそんな悪戯心が生まれたが、場を余計に混乱させるだけの発言は飲み込む。
「えっと、じゃあ…………そう、そうだ、昨日のことは? ……ほら、鏡ミラー」
昨日の出来事が不意に思い出され、はるかはベッドサイドのテーブルを見た。みちるをベッドに連れて来た時に、彼女の深海鏡をそこに置いたのだ。はるかはそれを手に取り、みちるに差し出す。
「昨日君は、月を見たあと胸が苦しくなったと言っていた。その時に鏡を抱えていたんだ。何か、視えなかったか?」
はるかに差し出された鏡をおずおずと受け取り、みちるは鏡を覗き込んだ。相変わらず不安げな表情のみちるを映し出す。やがてそこから顔を上げ、鏡を裏返して眺めながら言った。
「素敵な鏡ね。あなたのものなの?」
「え?」
みちるの言葉に、はるかはまた固まってしまった。セーラー戦士として前世から深い結びつきを持っていたはずのそれを、みちるが自身の物であると認識していない。それが何を意味するのか。
はるかは、口の中がカラカラに乾いているのがわかった。目を見開いたまま、掠れた声で呟く。
「その鏡、君のだ」