その夜も別々の部屋を使うつもりで、はるかはみちるの部屋の前まで来て「おやすみ」と告げた。
しかしみちるはそれに応えなかった。ドアの前で立ちすくみ、じっとはるかを見つめる。
「みちる?」
「待って、はるか」
訝しんだはるかに、みちるはそう言って手を取った。はるかは驚き、されるがままにみちるに手を差し出す。
「今夜はそちらで、寝てもいいかしら」
はるかが先に立って部屋に入り、みちるがあとに続いた。カーテンを引いた向こう側に、ぼんやりと月が輝いているのがわかる。薄く開けた窓からは、相変わらず優しい波音と風が入ってきていた。
その窓辺に置かれたベッドに、はるかが先に入った。みちるのためにもう一枚薄い肌がけを広げ、招き入れる。みちるはやや躊躇いながら、はるかとは少し距離を取ってベッドに入った。
大きめのベッドに細身の二人が間を開けて並べば、日中ドライブしていた時とさほど変わらない距離感とも言える。とは言え、薄着で無防備な寝姿となれば、精神的な距離はドライブとは比べ物にならない。はるかはみちるの様子が気になったが、あまり注視せず、上を向いていた。
「もう少し、そちらへ行ってもいい?」
しばらく経ってからそう言ったのはみちるだった。はるかは一瞬みちるの方を向いて目を瞬かせたが、逡巡して、思い切ってみちるに向けて腕を伸ばす。みちるが勇気を出して声をかけてくれた気持ちに応えたいと思ったのだ。それに応え、みちるもそっと手を伸ばしてはるかに触れたあと、身体をずらしてその腕の中に飛び込んだ。
はるかは、自分の胸が、音が聞こえてきそうなほどに高鳴っているのを感じていた。初めてみちるとこうやって寄り添った時も、そうだったっけ。妙な緊張感を誤魔化すために振り返ってみるが、あの時は互いに気持ちが通じ合っていることがわかった上でみちるを抱いたから、今とは少し状況が違う。あの時は単純にみちるに対する気持ちの高まりと、初めて足を踏み入れる領域への期待感でいっぱいだった。みちるが自分のことをどう思っているかわからないいま抱える緊張感とはまるで異なるのだ。
はるかは自分の腕に乗るみちるの重みと温かさを感じた。離れていた距離はぐっと近づき、互いの息遣いまでも感じられるようだった。みちるの髪の香りがふわりと鼻腔をくすぐり、はるかの身体の奥底の欲望を燻らせそうになるから、慌ててごくりと唾を飲み込む。
「はるか、私たち」
みちるが小さな声で呟いた。その声は、はるかの持つそれとはまた異なる色の緊張感を持っている。
「いつも、どうやって過ごしていたの?」
どうやって――はるかは碧い瞳の底を覗きこんだ。そして悟る。みちるは失った記憶から目を逸らさず、真実に近づこうとしているのだと。
「僕たちは」
はるかはみちるの瞳の奥までしっかり届くようにと、見つめ返した。みちるの視線が揺れる。
「いつも一緒にいた。戦士としてそうすべきだったから、というのもあるけど、それ以上に一緒にいたかったからそうしたんだ」
みちるがこくりと頷いて聞くのを見ながら、はるかは続けた。
「僕はみちるが好きだった。友達として、以上に。だから手を繋いだり、キスをしたり……それから」
「それ以上のことも?」
うん、と、今度は躊躇いなくはるかは頷いた。頬が火照っているのを感じる。視線の先に、月明かりに照らされて青白く輝くみちるの頬が見えた。自分の熱さも、月明かりが冷ましてくれればいいのにと思う。
「じゃあ、はるか」
みちるの手が、はるかの頬に添えられる。頬の温かさが、即座にみちるに伝わっていった。
「いつも通りに、して?」
深い水底のようなみちるの瞳から、ある種の覚悟が浮かんでいることを、はるかは見逃さなかった。はるかの胸はまた大きく音を立て、今度こそみちるに聞こえただろうと思う。思わず頬に触れた手を握った。
「でも、それは……」
みちるの指先は、思いのほかひんやりとしていた。頬に触れた部分が心地よく感じるほど。彼女の緊張を表しているのかもしれない。
みちるの想いははるかにも十分伝わってきていた。記憶の戻らない中で、勇気のいる行為だったろうと感じる。けれど。
「みちるの気持ちが僕の方を向いていないのに、君を抱くなんて」
はるかは小さく首を振って、言った。みちるが一歩踏み出した勇気と気持ちを拒否したと取られないよう、丁寧に。
みちるに告げた言葉の通り、彼女の記憶が失われたままであり、はるかに対する気持ちが曖昧なままで関係を深めようとするのは、互いにとってよくないことだと思った。言うまでもないことだが、二人が深い関係を持ったのは、互いに対する気持ちが高じた結果であって決して快楽のためではないし、一方の欲を満たすためでもない。みちるが記憶を失う以前から、片一方がそういう気分でない時は無理に関係を持とうとはしなかったし、違う方法のコミュニケーションを選んだ日もこれまでに何度もあったのだ。
みちるは軽く俯いた。ふわりと扇状に広がるまつ毛が、みちるの瞳の中の水面に薄く影を落とす。暫し扇ぐように動いたあと、みちるは顔を上げた。きらめく碧い瞳は、真っ直ぐにはるかにぶつかる。
「私は、あなたにとても惹かれているの。どうしようもなく」
水面に風が吹き込んだかのように、みちるの瞳が揺れた。
「みちる……」
その言葉に、はるかは息を呑み、みちるを見つめ返すことしかできなかった。やや恥じらう様子で、けれど真っ直ぐにその言葉を伝えてくれたみちるが、どうしようもなく愛おしく思えた。はるかの手に握られたままのみちるの手に力が入る。そのまま抱き寄せたい衝動に駆られたのを、辛うじて耐えるように、ぐっとみちるの瞳を覗き込む。
「でも、それは――」
はるかが口を開きかけたその時。
動いたのは、みちるだった。
月明かりに煌めいていたみちるの瞳がすっと閉じた。かと思えば、みちるははるかに手を伸ばし、首に腕を絡めていて。はるかが気づいた時には、柔らかい温もりが唇に触れていた。
はるかはみちるを受け入れた。拒否など誰ができよう。それは紛れもなく、はるかが今までずっと愛してきたみちるそのものだった。その奥に抱く気持ちは以前の彼女とは違うかもしれない。けれど、はるかに想いを伝えようとするそれは、はるかのよく知るみちるの口付けだった。
はるかは思わずみちるの肩を抱き寄せ、覆い被さるよう重なり、深く口付けた。隙間から漏れ出る吐息は、どちらのものだっただろう。そこには再び繋がることのできた喜びと、戻らぬ記憶を惜しむ気持ちと。いずれも含まれた感情が、二人の繋がりをより熱く濃くする。
「みちる……」
長い口付けの後、はるかが顔を上げると、みちるが見つめていた。月明かりの下でもわかる、紅潮し艶めく頬。潤んだ瞳は、切なげに訴えかけているようにも、はるかを甘い世界に誘っているようにも見える。
みちるの髪を優しく撫でた。彼女の想いに応えてしまってからもなお、はるかは迷っていた。みちる自身は先に進むことに同意しているし、はるかに対する気持ちも明かした。想いが繋がった二人が関係を深めるのは自然なことかもしれない。
だけど、そうだ、このままみちるを抱けば――。
「遠慮しているのね」
はるかは小さく頷いた。それから眉尻を下げ、苦笑する。
「やっぱり君には叶わないな」
みちるも軽く苦笑いしながら首を振った。はるかについて、本来取り戻したい記憶は全く戻ってきていないにも関わらず、彼女の考えていることが理解できるという事実に、やや皮肉の気持ちも混ぜながら。
はるかはみちるの上に重ねていた身体を一度起こし、ベッドに座ってみちるに向き直る。みちるは横になったまま、はるかを見上げていた。その頬を、はるかはもう一撫でする。
ここにいるみちるが一昨日までのみちると別人という訳でもなければ、みちるに対する思いが変わったという訳でもない。
けれど、年月をかけて葛藤を繰り返した末に結ばれた過去と、まっさらな状態から二日程度過ごして惹かれあった今とでは、気持ちの重みが違うことは間違いなかった。
強い衝動で惹かれあった初めての夜を、はるかは忘れることができなかったのだ。
きっと今みちるを抱けば、その向こうに過去のみちるを求めてしまう。けれど、今のみちるだって、はるかの愛するみちるには変わりない。同じ人を前にしながら、過去のその人を想うということ。みちるに対して失礼であること以前に、はるか自身がその矛盾を許せなかった。
「君が良いと言ったからって、それを言い訳にしていいとも思えない」
はるかの真摯な視線に、みちるも黙って頷いた。はるかはみちるから目を逸らし、窓の方を向いた。靡いたカーテンの向こうにちらりと見えた海は、今日も優しく凪いでいた。みちるみたいだ。はるかはふと、そんなことを思う。
「だからその上で聞いてほしいんだけど」
はるかはその瞬間、もう一度みちるの上を跨ぐよう覆いかぶさった。急なことに、みちるはどきりとして身体を震わせる。覗き込んできたはるかの瞳には驚くほどに色気が漂っていて、みちるは目が離せなかった。
「僕はみちるを愛してる」
みちるはハッと目を見開いた。はるかの真っ直ぐな言葉が落ちてきて、そのまま心を射抜かれてしまったように、動けなかった。
「記憶を失う前も、今も。そしてこれからも」
頭上のはるかが、みちるに向けて、ゆっくりと降りてきた。みちるは思わず緩く目を瞑った。はるかの吐息が頬にあたり、それから耳許へ。ぞくりと背中を伝う震え。ちぎれそうなほどに音を立てる心臓。
失われたであろう記憶の中の過去の自分も、こうやって彼女にときめいたのだろうか。
「僕はこれからもう一度、いまここにいる君に恋をする。だから――」
みちるにだけ聞こえる声で、そっと囁く。波の音も、風のそよぎも、全てが消え、鼓動とはるかの息遣いだけがみちるの耳を支配した。
みちるもこれから、僕のことを知ってくれる?
それは一瞬のようにも永遠のようにも感じられた。実際にはほんの少しの時間だったけれど、少なくともみちるの耳にはずっと、低音の優しく響く声が残り続けていた。
熱に浮かされたような瞳で、みちるが頷いた。
宝物を扱うよう、丁寧に、はるかはもう一度みちるに口付けた。みちるが瞑った瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。はるかに触れるのはとても嬉しくて心地よいことなのに、なぜか心がぎゅっと詰まって苦しかった。はるかの背中に腕を回し、しっかりと抱き寄せると、はるかは応えるように身を触れ合わせた。
頬を、首を、肩を、はるかは優しく大切に触れた。唇が、指先が触れるたびに、みちるの中の琴線に触れられているような気持ちになった。――そう、ヴァイオリンだ。はるかがみちるを扱うそれは、みちるがヴァイオリンを扱う時の様子にも似ている。大切に、優しく、気持ちを乗せて。どこか、心のうちに秘められたものを明かされるようで、みちるは嬉しくもあったし怖くもあった。
いつもの流れで、はるかはみちるのワンピースの裾を持ち上げ、素肌に触れた。が、みちるが身体を軽く強ばらせたので手を止める。今のみちるは初めてなのだ。そう気づいて、はるかは軽く迷ってから、先に自分の衣服のボタンに手をかけた。
はるかが自らの前をはだけさせると、みちるのものよりはやや小さな、しかし張りのあるかたちの良い双丘が現れた。ふたりが同じ性であることを改めて気付かされる証のひとつ。みちるは思わずそれを見つめてしまう。その視線は嫌ではなかったが、少しだけ気になったはるかは、みちるに尋ねた。
「やっぱり、嫌?」
みちるはふるふると首を振った。
「はるか……すごく綺麗。触れても良いかしら」
その口から発せられたのは、拒否ではなかったもののはるかの心を騒がせるには十分なもので、かっと頬に血が昇ったのを感じた。はるかが軽く顎を引いて頷くと、みちるの細い指がおずおずとはるかの上を伝う。
「……っ」
みちるの指先が触れ、はるかの身体に震えが走った。唇の隙間から熱い息が漏れる。みちるの指は頂の上から裾野までかたちを確かめるよう撫で、背中から腰に向けて愛でながら、自分のほうへと引き寄せる。布越しに伝わる温かさ。
はるかも今度こそみちるの素肌に触れた。みちるとは逆に、腰周りから柔らかい手つきで触れ、徐々に頂点へ。少しずつ裾を持ち上げ、やがて互いの肌が触れ合った。
はるかの身体は、想像以上に柔らかく張りがあり、優しいとみちるは思った。この二日間傍にいて、驚くほどスタイルがよく無駄な肉のない身体だと思っていたけれど、痩せて骨ばっているわけではない。程よく筋肉があるが、かと言って筋張っているわけでもない。触れ合うことの心地良さをこれほどに感じられるのだと、驚きを覚えた。
手や肌で触れるだけでなく、はるかは唇の先までも優しく温かく、みちるを愛した。控えめながら、時折赤い花弁も落としていったが、小さな痛みすらも今のみちるにとっては心地よく感じる。
はるかはみちるに気遣い、決して無理をさせようとはしなかった。丁寧に時間をかけてみちるの身体に触れ、みちるが慣れていくのを待った。いつも通りにしてしまおうと思えばそれは簡単だったし、みちるの身体は受け入れただろう。けれど、それはしなかった。
今はふたりが改めて互いを知る時間なのだから。みちるのことをよく知っているつもりでいたはるかこそが、彼女を改めて知る機会でもあるのだと。そう思っていたから。
やがてそれが核心部にたどり着いた時、みちるの心と身体はすっかり解けていた。細かく荒くなっていく息遣いとともに、みちるのそこはいつの間にか熱く疼き、はるかを求めていた。自分の身体がこんな風に変化するなどとは、夢にも思っていなかった。記憶に残っていないことに、悲しさや虚しさがないとは言えなかったが、安堵もしていた。少なくとも自分が以前からはるかを愛し、受け入れていたことを、例え記憶から失われていたとしても心と身体が覚えていることがわかったから。
「……触れて」
全身を隈無く愛されてから、はるかが視線でみちるに問うた時、みちるは迷いなく小さく頷いた。蕩けた表情、震える声で懇願され、はるかの理性は溶け落ちてしまいそうだった。指先で軽く触れたみちるの泉が熱く滾っていたから、余計に。とろとろと柔らかくなったそこに、はるかは唇と、舌と、指と、交互に埋めていく。はるかに反応してきゅうと締まるみちるの中が、心地よかった。恥じらって控えていたみちるの声が、やがて抑えきれないものとなって溢れ出し、はるかの耳を支配する。波音はもう聞こえない。みちるの高い声、はるかの息遣い、それと泉から湧く変則的な水音だけ。ふたりだけの世界にこだまし、旋律として酔わせる。
みちるの好むところを、はるかは知っていた。身体はきっと慣れている。けれど、はるかは今のみちるのペースに合わせ、急がず丁寧にほぐすよう高みへ導いていった。はるかの刺激に比例し、みちるの中からとめどなく液が溢れ続ける。
やがてみちるに、濁流に飲まれるような強い力と快感が訪れた。自分の声が、自分ではない遠い場所から発せられているように感じる。
ちかちかと霞む意識の中、みちるはもう、記憶など戻らなくてもいいとぼんやり思った。そしてこれからはるかのことを、もっともっと知りたいと思った。覚えていないことを悔いるというよりは、前向きにはるかに向き合いたいという気持ちで。
「……っ、はるかっ」
果てる瞬間に、みちるははるかの名を呼び、手をぎゅっと握りしめた。はるかから握り返されるのを感じる。ずっとずっとその手を繋いでいて欲しいと思いながら、みちるは深い海のような余韻に落ちていった。