マンションからホテルに向かうドライブも、ふたりのために用意されたラウンジもそこから見える景色も、贅を尽くしたディナーも、全てが最高のものだった。けれど、いわゆる資産家の家庭に生まれ、幼い頃から共に社交界に出る機会の多かったはるかとみちるにとって、全てが初めてのものというわけではなかった。言うまでもなく、ふたりで過ごし味わったからこそ一生の何物にも代えられない素晴らしい体験となったのだ。はるかもみちるも心の底からリラックスし、共に過ごす時間を楽しんでいた。
もちろん、そんな時間の合間にも、ふたりの脳裏にこれから経験することになるかもしれない“本当に初めての大人の体験”がちらつかなかったわけではない。はるかがみちるにさりげなく流す視線の端々から。あるいは、みちるが食べ物や飲み物に口をつけるその動きから。日常動作とも言えるさまざまな動きの一瞬一瞬から、これまで相手に感じて来なかった――あるいは意識的に感じないよう抑え込んでいた――艶かしさや色っぽさを都度感じては、はるかがみちるに見惚れて生唾を飲み込んだり、みちるが胸をときめかせて俯いたりしていたものだから、ふたりはどこか忙しなく、時に心ここに在らずといった様子でもあった。
ふたりは食事を楽しんだあと、最上階の部屋に戻るため、エレベーターに乗り込んだ。ここまで、緊張しながらも和やかに弾んでいたふたりの会話は、ついに途絶えた。全面ガラス張りの箱に閉じ込められたまま、ふたりはなんとなく手持ち無沙汰になって寄り添いながら、階数を示すパネルの数字が少しずつ大きくなっていくのを眺めていた。
やがてエレベーターは、目的の階への到着を告げる控えめな機械音とともに停止した。静かに開いた扉から出て、ふかふかの絨毯が続く廊下の最奥にある部屋まで進む。そこまでの道程はずいぶんと長く感じた。ヒールの高い靴を履いたみちるがいる手前、歩調が速くなってしまわないよう気をつけてはいたが、それでも自然とはるかがわずかに前に出るかたちで歩いた。そして、目的の部屋のドアを開ける。
みちるを先に中に進ませてからはるかも入り、後ろ手にドアを閉めた。
「……っ!」
みちるがはるかの方を振り返ったのと、はるかがみちるを抱きすくめるのと、ほぼ同時だった。声にならない叫びを上げ、みちるははるかの腕の中にすっぽりと収まる。
みちるの心臓が、ちぎれそうなほど大きな音を立てて鳴っていた。対してふたりが入った部屋は、小さな物音なら一瞬で壁や床に吸い込まれてしまいそうなほど高い吸音性を発揮しており、空調が動く音はもちろん、外からの音も、ふたりの衣擦れの音でさえも、何ひとつ感じられなかった。
ただ、物音ひとつせず、時を止めてしまったかのような部屋の中で、ふたりの脈打つ命の音だけが時を止めず、強く強く鳴り響いていた。
「……僕はみちるのすべてが欲しい」
長い沈黙の後、はるかは呟いた。みちるは顔を上げなかった。ただ、そっとはるかの細い腰に腕を回し、こくりと首を動かして頷く。
「……みちる、こっち向いて?」
はるかの手は、滑るよう優しくみちるの髪を撫でていた。顔を上げなくとも、はるかの声から滲み出る優しさは伝わっていたし、表情を見なくとも、きっと決意を秘めた真摯な瞳がこちらを見つめているのだろう。その瞳を覗き込んだら、今度こそ正気でいられない。みちるはそう思った。
はるかは急かすこともせず、ただゆっくりとみちるの髪を撫で、肩を抱いていた。
やがてみちるは、おずおずと顔を上げた。はるかはつい先ほど、みちるに思いを伝えたあの瞬間と同じように、真剣で優しい眼差しでみちるを見つめていた。みちるがずっと愛し、焦がれてきた深く強い視線。けれどかつてのそれと違うのは、たった独りで何かを追い求め、遠くを見つめる視線ではなくなったこと。今の彼女の瞳の中に映るのは、みちるただひとりであること。
全てを見透かし、射抜かれてしまうようで、みちるの身体に甘い痺れが走る。胸が高鳴り、期待に心が震えてしまう。なのに、どこかみちるの心を安心させる力も持っている。
両極端で相反する想いに揺れながら、ついにみちるは口を開いた。
「はるかに、すべてを捧げるわ」
みちるの答えに、はるかが愛おしむような温かな視線で微笑むのが見えた。もう一度背中を優しく抱かれ、それから甘い口付けを落とされる。
はるかに身を委ね、自分の全てを明かそう――みちるは目を閉じて、はるかの首に自らの腕を絡めた。