この街を出ると宣言したにも関わらず、わずか数時間ではるかとみちるは例のマンションまで戻ってきた。マンションに着く直前、はるかはシフトレバーに手を置く。みちるの答えがどうあれ、はるかは受け入れるつもりだった。エントランスの前で減速すると、みちるの手がそっとはるかの右手の上に置かれる。
内心、どきりとした。が、落胆した表情を見せるまいと、はるかは平静を装って車を停める。
「部屋まで送るよ」
そう言って車を降りようとしたはるかに、みちるは慌てて首を振った。
「はるか、違うの。荷物を取りに行きたくて。待っていてくださらない?」
「みちる……」
予想外の発言にはるかが呆然としていると、みちるは自らドアに手をかけ、助手席から立ち上がりかけた。しかし、すぐに力が抜けたようにすとん、と座り込んでしまう。
はるかが訝しんでその様子を見ていると、みちるが首をひねってはるかの方を向いて言った。その頬を真っ赤に染めながら。
「……ごめんなさい。わたし、すごく緊張しているわ。はるかとふたりきりで出かけるのなんて、初めてではないはずなのに……」
合点がいったという様子で、はるかは急いで立ち上がり、助手席側に回った。みちるが助手席から降りるのを手助けする。いつもよりも少しおぼつかない様子なので、はるかは自然とみちるにぴたりと寄り添って支える形となる。
いつも人前で凛と背筋を伸ばして立つ彼女が、支えなしで立てないほどに緊張する様子は可愛らしくもあり、しかしそれは、これからふたりで過ごす時間への不安の表れと思うと、はるか自身もどうしようもなく身体がそわそわとし、叫び出したい気持ちになっていた。
たまらず、はるかは吐き出す。
「僕もだよみちる。すごく緊張してる」
はるかが? と疑り深い目で見上げるみちるに言った。
「さっきそこの角で、道を間違えそうになったんだ。気づいた?」
「……いいえ」
はるかは、最後の角の一つ手前の信号で誤って右折レーンに入ってしまいそうになった。走り慣れた場所なのに、彼女にしては珍しいミスだ。しかし、街並みを追いかけ気を紛らわすことに必死で、みちるは気づかなかった。
はるかが頬を掻きながら話す様子を見ていたら、急にみちるの中で張っていた何かがプツンと切れたような気がした。
「くっ……うふふふ、あははは……ふふふ」
「なんだよ、みちる」
突然笑い出したみちるに驚き、はるかは目を丸くする。みちるは最初口を押さえて笑っていたが、そのうち堪えきれなくなったのか、お腹を抱えて笑いだした。こんなにも笑っている彼女の姿を見たのは初めてで、はるかは呆然とそれを見つめていた。
やがてみちるは、目の端に溜まった涙を指先で押さえながら言った。
「だってあなた、あんなにかっこよく『ホテルを取ってる』なんて言うから……わたし、すごくドキドキしちゃったのよ」
みちるの指摘に、はるかは不意を突かれたようにきょとんとした後、拗ねたように唇を尖らせて言った。
「みちるほど素敵な女性をエスコートするんだ、そりゃ緊張もするさ」
その言い方もなんだかおかしくて、でも同時に愛おしさもいっぱいになって、みちるはまたクスクスと笑う。
はるかは困ったように眉を下げて笑いながら言った。
「僕だってきみに最高の夜を過ごして欲しいって思ってたんだ……ちょっとはかっこつけさせてくれよ」
「……ありがとう」
みちるははにかんで、そう囁いた。
心が、何か温かいもので満たされている気がしていた。みちるはいま、間違いなく世界で一番自分が幸せだろうと思った。
辛く苦しい使命の日々の中で、いつからかみちるの感情は動かなくなった。
年相応に将来を夢みたり、いつか出会う愛する人に憧れる小さな少女の心は、冷たく固い心の牢獄に閉じ込められ、見向きもされなくなった。そのまま棄て去って忘れてしまうつもりだった。
まさかこうやって、唯一無二の大切な人と、心の底から笑って抱き合える日が来るなどとは、本当に夢にも思わなかったのだ。
閉じ込められていた本当のみちるは、いま、温かく幸せな海に向けて解放された――。
みちるは少しだけ踵を上げて、もう一言だけ、はるかの耳元で囁いた。
「あなたと一緒なら、たとえどんな嵐の日でも何もない無人島でも、最高の夜になりそうだわ」