「横浜にホテルを取ってる」
みちるを助手席にエスコートする直前に、はるかは耳元でそう囁いた。みちるは驚いてハッと顔を上げる。
それって、と言葉に出さずにみちるが視線で問うと、はるかはゆっくりと頷いた。
「無理にとは言わない。気持ちの準備とか、あるだろうし……これからもう一度“あのマンション”の前を通るから、もし降りたければ、僕の右手を握ってくれればいい」
はるかは、無限学園在学中にアジトとして使用していたマンションのことを挙げた。戦いの後半のほとんどの時間を、ふたりはそのマンションで過ごしていた。だからいつでも戻って寝泊まりができる状態になっている。
はるかはシフトレバーを握る方の手をひらひらと振り、運転席に戻った。
薄闇を割り、はるかの車のヘッドランプは滑らかに進んで行った。行きとは違い、ふたりとも固い表情で前を見つめていた。もちろんそれは、決して後ろ向きな気持ちによるものではなかった。
緊張。
期待。
不安。
ふたりの関係を一歩前に進めるための、前向きな気持ちから来る感情。
みちるはカーブを曲がるタイミングでたびたびはるかの表情を覗き見た。はるかは一心に正面を見つめ、運転に集中している様子だった。否、内心どう思っているのかはわからなかったけれど。
きっとこの後、この瞳に見つめられるのだろう。彼女の瞳に自分以外の何者も映らなくなる――そして、甘い声で囁かれ、肌を触れ合わせる。先ほど海辺で交わした、一瞬で溶けるようなささやかな口付けよりも、もっともっと深く甘いキスを交わすのだ――それを想像しただけで、みちるは胸の奥底がきゅっと縮むような気がした。
横顔を見つめて、その先の出来事を思い描いただけで頭がぐらついてしまいそうな緊張感を覚えるのに、実際にその行為に及んだ時、自分は正気を保てるのだろうか。
みちるは胸を抑え、はるかに気取られないよう大きく息を吸って、吐いた。どれほど大きなコンサートの時だってこれほどの緊張はなかったものだと、みちるは心の中で苦笑した。