「ここかっ!」
角を曲がり、駆けつけた場所は古い倉庫だった。はるかはロッドを掲げて変身する。私もすかさず同じようにロッドを掲げた。
「ディープ・サブマージ!!!」
完全に変身し終わるのと、必殺技を繰り出すのと、どちらが早かっただろうか。巨大な水球が真っ直ぐに敵に向かって放たれる。こちらを振り返ったウラヌスは、あまりの早さにたじろぎ、戸惑っている様子だ。
その姿をきちんと目視する間もなく、敵は一瞬にして意識を失い、人間の姿に戻った。
「ネ、ネプチューン?」
驚いてその場に佇むウラヌスを放っておいて、私はさっさと変身を解いた。
私は大きくため息をつき、身を翻して元来た方へ歩いた。
「またタリスマンじゃなかったわね。行きましょう」
感情を押し殺して、はるかにそれだけ告げた。
俯きながら歩いて、ふと足元を見ると、玄関で慌てて履いてきた靴が目に入った。走りやすさを重視して、フラットシューズを履いてきていた。今日のワンピースと、なんて不釣り合いなのだろう。
メイクも途中までしかできなかった。まだ鏡は見ていないけれど多分時間をかけて結った髪も乱れているだろう。
悔しくて、涙が出てきそうだった。
「待てよ、みちる」
変身を解いたはるかが、私の肩を掴んだ。
「どうしたんだ。いつもはもっと慎重なのに……いや、早く片付いたからいいけど……。
でも、君らしくない」
はるかの動揺が、掴まれた肩、後ろからの息遣いで伝わってきた。
無理もないことだ。いつもはどちらかと言えば急いて戦うはるかを私が制することが多い。
「……だって」
小さく呟くと、白い息がふわっと出てきて、消えた。
「邪魔されたんですもの」
私はふぅ、とため息をついて、はるかの方を振り返った。はるかは私の顔を見て、さらに動揺したようだった。
「みちる……」
「今日はあなたと、デートする予定だったのに」
私は耐えきれなくなって、手で顔を覆った。こんな姿を見られたくなかった。こんなはずじゃなかった。
「朝から……ううん、約束した時から、ずーっと楽しみにしていたのに……」
なぜ、使命なんかにはるかとのデートを邪魔されてしまったのだろう。
なんで私は、大切な時間を邪魔されてまで戦っているのだろう。
今までそんなこと、考えたこともなかった。ただ感情を押し殺して、使命を最優先にして戦い続けていた。
使命よりも優先したいものができてしまったのね……
自分ではるかのことを巻き込み、「使命のためなら犠牲は厭わない」と互いの決意を口にしてきた。それなのに、自分の方が使命を疎かにしてしまうなんて。
でも。今日くらい。今日一日くらいいいじゃない……。
普通の女の子のように、大切な誰かを思って服を選び髪型を整え、メイクして、うきうきする……それすらも、私には許されないのだろうか。
ふと、出かける間際にポケットに入れてきたものの存在を思い出した。顔を覆う手を外し、ポケットから取り出してみる。
淡いピンクのグロス。まだほとんど使われておらず、たっぷりと残った液体に、キラキラとしたラメが浮いている。
なぜか出かける瞬間に目について、とっさにポケットに入れたのだった。
これははるかとある日の放課後に寄り道して買ったもの。どこにでも売っていて、そこらにいる女子高生でも持っていそうな、普通のグロス。
高級品でも限定品でもないけれど、はるかと一緒に寄り道して買ったものだから、私にとっては特別なグロスだった。
だから、特別な日……例えば今日みたいなデートの日に使いたくて、いつもドレッサーの見える位置に置いて眺めていた。
だけど……私はそんな感情すら、持ってはいけなかったみたい。
とっておきの日に使うことを許されないのなら、もう……。
グロスを握りしめた手を高く上げ、地面に向かって振り下ろそうとした。
「みちる!」
はるかが私に向かって一歩踏み出した。
次の瞬間、私ははるかの腕の中に包まれていた。振り上げていた腕は、行き場を失って下がった。
「……っ」
突然のはるかの行動に、私は何も言葉を発せずにいた。
はるかに包まれているのはとても心地がよかった。温かくて、優しくて、柔らかい。強ばった心が融けて、緩んでくる。堪えていた涙が溢れてくるのを感じた。
おそるおそる、はるかの背中に腕を回した。その動きに呼応するように、はるかは私を抱く手にそっと力を込める。
「……ごめんなさい」
はるかの胸元に顔を押し付けて、呟いた。
「なんで謝るの?」
はるかの優しい声が、頭の上から降ってくる。
この声が聞けるのなら、デートでなくても一緒にいられればよかった。なのに、なぜ私はこんなに欲張ってしまうのだろう。
「私……浮かれていたわ。はるかとデートができるって。使命のためじゃなく、あなたと一緒にいられるって。
朝から浮き足立っていたの。おしゃれしてあなたに会うんだって。
でも……バカよね。デートの日だって、使命のことを忘れていいわけじゃないのに」
はるかの胸元でくぐもったその声は、ちゃんと届いているのかわからない。だけどはるかは、優しく私の頭を撫でてくれた。
「みちる、あのさ」
はるかはそっと私を胸元から離した。思わずはるかの顔を見上げると、はるかはこちらを見つめている。
「今から僕と、デートしてくれませんか?」
はるかは、私の目を見つめたまま、そう言った。
私の視界から、はるか以外の一切が消えた。急に真っ白な世界に二人だけ残される。
蒼碧の瞳だけがきらきらとこちらを見つめ、はるかの息遣い以外に何も聞こえない世界に来たかのようだった。
「……え?」
「まだ約束の日は終わってない。そうだろ?
楽しみにしてたのはみちるだけじゃないんだぜ」
「でも……私、準備が……」
「僕だってまだ着替える前だった。いくらでも待つよ。みちるが行きたかったところ、全部は無理かもしれないけど、これから行こう」
私の中が、じんわりと温かい言葉で埋め尽くされていくようだった。外は寒いはずなのに、今いる世界はそんなことを忘れさせてくれるようだ。
同時に、胸の奥までぎゅっと掴まれるような、強い痛みも生まれた。
「はるか、私……」
はるかは私の唇にそっと人差し指を当てた。そして、私の手を取り、するりとグロスを抜き取る。
「ちょっと、目を閉じて」
これから起きることにドキドキしながら、私はそっと目を閉じる。
ややあって、唇にひんやりとした感覚が乗った。ちょんちょん、と軽く触れるような感覚を数回繰り返し、私は目を開けようとする。
「そのまま……」
はるかにそう言われて、開けようとした目を慌てて閉じた。
何秒か間が空く。何も起きないので目を開けてしまいそうになるが、じっと我慢して待っていた。
しばらく経ってから、今度は柔らかい感触が唇に触れた。一度離れたはるかの腕が、再び私の背中に回され、ぎゅっと抱きしめられる。
唇と、背中と……はるかと重なる全ての部分が熱い。甘くて、熱くて、蕩けそうな感覚だった。私は全身ではるかを受け止める。
はるかの唇がそっと離れたので、うっすらと目を開けてみる。儚げなはるかの表情が目に入った。その顔にまた胸がぎゅっと詰まり、顔が火照る。私は思わず下を向いてしまった。
「みちる?」
「……ばかね」
「え?」
「つけてすぐにキスするなんて」
言ってから、ちらりとはるかを見上げる。はるかの唇は、先ほど私の唇に塗られたグロスが少しだけ、ついていた。
あ、そうか、とはるかは苦笑する。
「なんていうか……つい」
はるかが、頬を掻きながら目をそらす。その横顔が、耳まで綺麗に染まっていることに気づいた。
はるかなりに私を思ってくれての行動だったのだと思い、思わず頬を緩めてしまう。
「えっと。じゃ……行こうか」
はるかは私にそっと手を差し出した。私はそれに丁寧に応じる。
「これからどこへ行きたい?」
元来た道を、今度はゆっくりと歩いて帰りながら、はるかは尋ねた。
寒さで頬と鼻先が赤くなったその顔を愛おしく思いながら、私は答える。
「あなたとなら、どこへでも……」