その日、みちるはとても機嫌が悪かった。
夕方には帰ってくると言っていたはるかが、夜になっても帰ってこなかったのだ。
よりによって今日は珍しくせつなは学生時代の友人に会うと言って出かけているし、ほたるもちびうさの元に遊びに行っていていない。
みちるは日中バイオリンのコンサートのリハーサルがあり、はるかはモトクロスの練習に出かけていた。それぞれ夕方までの予定だったので、夕方からは二人きりで過ごせる……はずだった、のに。
決定的だったのは、20時を過ぎてようやく帰宅したはるかから、普段とは違う香りがしたことだった。甘く、強く、みちるはあまり好きではない種類の香水の香りだった。
みちるは普段、あまり香水をつけていない。コンサートなどで衣装に香りがついたら困るから、普段からあまり強い香りのするものは身につけないのだ。プライベートの時も、優しい香りが仄かに漂うくらいに留めている。
それに気づいてしまったから、みちるは帰宅が遅くなったはるかに優しい言葉などかけられるはずがなかった。
「ごめん、遅くなっちゃったね。練習が少し延びちゃって。これ、一緒食べない?」
はるかの方はと言えば、詫びの言葉はあれど、みちるほど気にしている様子もない。その態度がまたみちるの機嫌の悪さに拍車をかけた。
はるかが差し出してきたのは、最近雑誌で行列ができる店として載っていたケーキ屋さんのケーキ。はるかが練習で行く競技場の近くだから、いつか食べてみたいわね、と話していたお店だ。
――さしずめ、どこかの女の子から差し入れでもらったのでしょう?
今のみちるには、素直に受け取る気持ちが起きなかった。
「……遠慮するわ。
ディナーも食べられなかったし、そんな香りがしていたらケーキの味なんてわからないもの」
みちるの少し棘のある言い方に、はるかが眉をひそめ、そして思い出したように自分の手首から漂う香りを確認した。
「ああ……これか。練習のあとに待っていたファンの子がくれたんだ。僕はいらないって断ったんだけど、どうしても試して欲しいって言うから……」
「その子とデートでもしていたから遅くなったのかしら?」
はるかは困ったような顔をした。みちるは、そんな顔をさせたかったんじゃなかったのに、と思う。
今の私の顔はきっと怒っていて醜くて、とてもはるかに見せられたものではないのだろう。そう思うが、この気持ちは止められない。
はるかはみちるに近づき、頬に手を添えた。
「みちる、妬いてるの?」
みちるは、甘い香りが近づき一瞬不快に思った。しかし意外なことに、近くに来ると少し甘酸っぱさがある香りで、それほど嫌いな香りではないことに気がついた。
「……ええ。妬いているわ。
せっかく今日は二人でデートができると思っていたのにずいぶんと待たされたし、やっと帰ったと思ったら変な香りをさせて帰って来るんですもの」
……これで妬かないはずがなくってよ?
最後の一言はかろうじて飲み込んだが、顔にはたぶん出ている。だから今の顔を見られたくなかった。みちるははるかの手を払い除けたい気持ちを抑えて、優しく手を取って頬から外した。
はるかはくすっと笑い、みちるの背中に腕を回して抱く。そして
「……可愛いな」
とだけ呟いた。