クリスタル・パレスを後にしたはるかとみちるは、パレスからそう遠くない自宅に帰ってきた。玄関を開け、はるかを招く。
「はるか」
みちるの招きに、やや俯いて立っていたはるかが顔を上げた。その表情は虚ろで、こちらを見ているようで見ていない……みちるにはそんな風に見えた。
みちるは軽く唇を噛み、俯いた。言いたいことが溢れ出しそうで、身体が熱かった。しかしぐっと堪えて、はるかの手を引く。
「こっちにいらっしゃいよ」
抵抗なくついてくるはるかに見えないよう、みちるはこっそりため息をついた。
「はるか……いいえ、ウラヌス、と呼んだ方がいいのかしら」
はるかをリビングに連れてきてソファに座らせたみちるは、そう言った。はるかは視線を落としたまま、首を静かに振る。
「君の好きな方でいい」
そう、とみちるは微笑み、自らもはるかの横の空いたスペースに座った。はるかは何も言わずにそれを受け入れる。
みちるは少し考えてから、意を決してはるかに問う。
「あなたは今までずっと、どこにいたの?」
はるかは、みちるの方に顔を動かした。キンモク星で目を覚ました時のような鋭い視線ではなかったが、以前までのはるかとはやはり目つきが違う。この瞳に対面すると、みちるは心にずっしりと重みを感じてしまうのだ。
はるかはどう言ったものか迷うような表情をしてから、自らの胸を示し、言った。
「ここに」
やはり、ずっとはるかの中にウラヌスがいたということだろうか――みちるはそう思い、もう一つ尋ねる。
「はるかも一緒にそこにいたということよね。はるかのことは覚えていないの?」
みちるの問いに、はるかは一瞬考え込むように目を伏せ、それからもう一度顔を上げた。
「僕と共にこの身体にいた者のことは覚えている。僕はその人を……はるかという人のことをずっと遠くで見ていた」
はるかの答えに、みちるは目を瞬かせた。
「どういうこと?」
「はるかと僕は別人格で、同じ身体の中で別々の意識を持っていた……と言ったら良いのだろうか」
じゃあ、とみちるは一言呟いて、俯いた。頭の中では、はるかと過ごした日々、それからウラヌスと共に戦ってきた日々を思い出していた。
「あなたはセーラー戦士として戦っていた時に……ええと。どう言ったら良いのかしら。
あなたが、はるかよりも……前に、出てきていたこともあったの?」
みちるは迷いながら、丁寧に言葉を選んではるかに尋ねた。
別人格――すなわちそれは、今まではるかとウラヌスは一つの身体を共有していて、必要に応じて主体となる人格が入れ替わっていた。つまり、みちるは今までもウラヌスと会っていて、会話を交わしたことがあったのではないか――そう思ったのだ。
しかし予想に反してはるかは、いや違う、と否定するように首を振った。
「戦士として戦っている間も、僕は表に出てきていたわけじゃないんだ。日常生活の時も戦いの時も、あくまで主体ははるかで、僕はそれを意識の底から眺めているイメージだった」
意識の、底――。みちるは呟いた。
突如、みちるの頭の中で、透明な瓶のように透けたイメージが思い浮かべられた。透明な瓶の中で、ウラヌスの魂が底に沈んでいる。その上で、はるかの魂が活動している。
頭に浮かんでいるのはキラキラと陽の光で輝く瓶。その底から、飛翔の戦士ウラヌスは何を見ていたのだろう――。
みちるの目に、瓶の底で立ち尽くし、飛び立つことのできないウラヌスが見えた。
「そんな顔、するな」
はるかに声を掛けられて、みちるは我に返った。はるかは困ったような、苦笑いを浮かべたような表情をしていた。自分は一体どんな顔をしていたのか――みちるは目を伏せ、ごめんなさい、と呟く。
「僕は別に、この身体の中で抑圧されていたわけじゃない」
みちるの考えていたことを見透かすかのように、はるかはそう言った。みちるは驚いて思わずはるかの顔を見つめる。深い蒼碧の瞳は、はるかがそこにいた時と変わらず、みちるを映し返している。
その色を見つめていたら、みちるは以前と変わらないはるかの面影を見つけられたような気がして、少しだけ安心した。
「あなたがはるかのことをずっと見ていたのなら、教えて欲しいのだけど」
みちるは再び口を開いた。何? とはるかが目線で応える。
「はるかは……”あの時”、何をしたの?」
明言はしなかったが、はるかは、ああ、と理解したように頷き、遠くを見るように前方に顔を動かした。
「僕も見ていただけだからちゃんと理解しているわけではないけど」
そう前置きした上で、はるかは言った。
「おそらくはるかは、宇宙剣乱風で起こした風に自分のパワーを込めて、自分の分身のように自在に扱う技を編み出していた。それで、周りにいた小さな敵を倒し、自らは親玉に剣を突き立てたんだ」
「そんなことが」
驚いて目を見開くみちるに、はるかは頷いた。
「ただ、この技は未熟で、弱点があった。分身として風に込められたパワーを、自分の元に戻すことができなかったんだ」
はるかは、自らの胸をとん、と突いた。まるでそこに、自分の力が眠っていることを示すかのように。
「つまり、あの技を使えば使うほど、この身体のパワーを消耗することになる。はるかはあの時、一気にパワーを放出することで、自らのパワーを全て使い切ってしまったんだ」
なるほど、とみちるは頷いた。だからあの時はるかは、無傷にも関わらず消耗しきった様子で、あっという間に力尽きてしまったのだ……。
「あの時はるかは、そうするしかないと思っていたんだろうな」
はるかは淡々と語っていた。はるかの最期についてはるかの声で語られることを、みちるは不思議な気持ちで聞いていた。
そして少し置いてから、黙って俯いた。
あの時……私が易々と敵に捕まってしまわなければ。
あの手をどうにかして抜け出せていれば。
はるかに無理な選択をさせない方法があったのではないか――。
考えても仕方のない事だというのはわかっていた。だけど、考えずにはいられなかった。
みちるはじっと宙を見つめていた。はるかが敵の腕を伝って登っていく瞬間と、自分の膝の上で力尽きる瞬間が、繰り返し頭の中を巡っていた。思わず手で顔を覆う。
はるかはそんなみちるを、痛ましい表情で見つめていた。迷ったように一度口を開き、それから閉じる。
少し置いてから、躊躇いながら、もう一度口を開いた。
「僕ははるかと感情を共有していたわけではないけど。ひとつだけ言えるのは」
みちるは動かずに、顔を覆ったまま黙って聞いていた。
「はるかは、君のことをとても愛していたと思う。僕が前世でネプチューンを愛したように……」
そこまで言って、はるかは一度口を噤んだ。口元に手を当て、考えるように呟く。
「いや……少し違うな」
顔を覆っていたみちるがそこで少しだけ顔を上げた。覆っていた手を浮かせ、ちらりとはるかに目線を投げる。
はるかはみちるに向き直り、言った。
「僕の前世でのネプチューンへの思いは、もっと衝動的で、瞬間的だった。戦いと、月の王国を守る使命だけで生きていた僕たちは、互いの存在にしか希望を見出せず、そうするしかなかったんだ」
はるかはそこで言葉を切った。何か遠くに思いを馳せるように考え込んだ後、もう一度口を開く。
「でもはるかは……もっと君を愛おしみ、大切な存在だと思っていた……と思う」
みちるの目が見開かれた。瞳を震わせ、はるかを見つめていた。みちるから見えるはるかの姿がじんわりと滲む。
「なぜ……そう言えるの?」
はるかは柔らかく微笑んだ。その笑顔は、戦士ウラヌスの顔ではなかった。確かに”はるか”をそこに見たみちるは、堪えきれなくなり、唇を噛む。
「君を見ている時のはるかは、優しくて、温かかった」
とうとうみちるはソファに座ったまま深々と前に沈み込み、再び両手で顔を覆った。
はるか……はるか……口には出さなかったが、はるかを呼ぶ声はずっとみちるの頭の中で響き続けている。
まるで海の底にいるような、静かで重くて透明な。
部屋にはそんな静寂が漂っていた。
じっと俯き震えていたみちるの背中に、ふいに、ふわりと温かみが広がる。みちるがぴくりと動いた。はるかが、みちるの背中に優しく手を置いていた。
その手はまさしくみちるがずっと好きだったはるかの手で。
みちるの目から、ついに堰を切ったように涙が溢れた。
「はるかに……会いたい」
そう呟くみちるを、はるかは複雑な思いで眺めていた。自分にはどうすることもできない。しかし目の前で泣くみちるを見て、心が動かされはじめるのを感じてもいた。
ふと、はるかが背中に置いていた手を見ると、きらりと光るものが見えた。手を動かさずに、目を凝らして見つめてみる。意識していなかったから気づかなかったが、はるかは左手の薬指に、細く輝く指輪をつけていた。
おそらくこれは――。はるかはその意味に気づき、小さく息を呑んだ。
みちるの背中に置いた手が一瞬躊躇ったように動き、どうしようかと迷いながらもその手を肩に滑らせる。はるかはそのままみちるを優しく、自分の元に抱き寄せた。
みちるは為すがままにそれを受け入れ、はるかの胸の中に抱かれた。そこにはるかの香りを感じてしまい、もう止めることができなかった。
「はるか……」
みちるははるかの胸元を濡らしながら、はるかの名を呼び続けた。