――本当に、くだらないわ。
顔は笑顔でいながら、みちるは心の中で毒づいた。目の前にいるのは、とある起業家の男性。紳士を装っているけれど、目の奥に下心がちらちらと見え隠れしており、みちるの心は不快感でいっぱいだった。さっきから延々と何か話しているけれど、みちるの頭には全く響いてこない。
みちるがゲストとして呼ばれた今回のパーティは、とある実業家が主催したものだった。ある程度の社会的ステータスがあるものだけを招待した、いわば実力の誇示と人脈形成のために設けられたような場。みちるは当然そんなものには一切興味はなかったが、ヴァイオリニストとしての仕事で主催者と多少の縁があったことと、余興でのヴァイオリン演奏があったため、渋々参加していた。
つまらない自慢とごますりに溢れた会場の空気にみちるが辟易していると、突然誰かが視界を塞いだ。
「ちょっと。失礼。そこの飲み物を取りたいんだ」
みちるにとって、よく聞き慣れた声がした――はるかだ。
はるかはみちると件の男性の間に堂々と割って入り、テーブルの飲み物を取ろうとしていた。どう考えてもその飲み物を取るのに二人の間に入る必要はなく、二人の会話を中断しようとする意図があるのはみちるの目にも明らかだった。
それは男性にも十分に伝わったようで、彼の顔にはさっと怒りが浮かんだ。しかしさすがに怒鳴り声を上げるのははばかられたようで、はるかに近づいて低く小さな声で言った。
「君。何のつもりだ」
はるかは男性をちらりと一瞥し、ふっと鼻で笑う。
「おや。貴方こそどういうおつもりですか。未成年に勧めるにはそぐわない飲み物をお持ちのようですが」
「……っ」
はるかの一言に、男性は明らかに動揺したような表情を浮かべた。直後「くそっ」と小さな捨て台詞を吐き、その場を後にする。
「はるか、どうして」
はるかも今日のパーティに招待されていたのだが、みちるとは全く違う関係者からの誘いだったために、会場ではバラバラに行動せざるを得なかった。先ほどの男性と話し始める前はずいぶんと離れた場所にいたので、まさかはるかに助けてもらえるとは思わず、みちるの心は踊っていた。
みちるの心とは裏腹にはるかの表情は厳しかった。周りの様子をさっと気にした上で、みちるにそっと囁く。
「気をつけた方がいい。さっきの男性、そこのソフトドリンクに一つ、お酒のグラスを混ぜていた。何かのタイミングで君に勧めるつもりだったんだろう」
「まあ」
みちるはそこにお酒のグラスが置かれていたことに気が付かなかった。もちろん、あの男性のことなど全く信頼していなかったから、何か勧められても易々と飲んだりすることはなかっただろう。しかし、そんなつまらない手段を何十も年下の未成年に平気で使おうとする薄汚さに寒気を覚える。
一方では、離れた場所にいたはるかがそれに気がついていたことに感心し、場違いながらも嬉しい気持ちを抱いてしまった。
「ごめん、みちる。本当はもっと早く助けたかったんだけど」
はるかはそう言ってから、ちっ、と舌を鳴らす。
「さっさとこんなところ……でもみちるの演奏がまだ……僕も戻らないといけないし……」
独り言のように呟いてみちるから目を背けたはるかのジャケットの裾が、ツン、と引かれた。なんだろう、と首を捻ると、みちるが裾を引いている。彼女の思わぬ行動に、はるかは目を見開いた。
「もういいわ。こんなところ、出ましょう」
みちるの発言に驚いていると、彼女はすっと踵を上げ、はるかの耳に向けて囁いた。
「私、もう二度と意味の無いことに時間を割いたりしないわ……あなたと過ごす時間の方が大切だもの」
ね? と笑って見せたみちるに、気がついたら手を引かれて。あれよあれよと言う間に、二人は会場の扉を滑り出ていた。
自分の手を引きながら早足で廊下を進むみちるの姿を眺めながら、はるかはぼんやりと思う。
――ああ、救われたのはどちらだろう、と。