目が覚めると、無機質な白い天井が見えた。部屋はどんよりと暗く、重苦しい空気が漂っている。耳を澄ませると雨音が聞こえて、心が少し重くなった。雨の日はオープンカーには乗れないし、バイクに乗るにも少々準備が面倒だ。
左側に顔を向けてみる。まだ半分閉じた視界に、一人では広すぎるベッドと伸ばされた自分の左腕が見えた。
――あれ。なんかおかしいな。
重い瞼を無理矢理瞬かせ、視線の先を見る。広いベッド。不自然に空いた空間。そちらに向かって伸ばされた左腕。
――僕はこんなに端っこに寝るのが好きだったかな。
頭の隅に靄がかかったような妙な違和感を覚え、髪を掻きながら身体を起こした。リビングからはコーヒーと朝食の匂いが漂ってきており、物音と微かな話し声が聞こえる。
「おはよう」
「おはようございます。はるか」
「はるかパパ、おはようー」
すでに席についていたせつなとほたるに挨拶をして、僕は一度洗面所に向かった。
鏡の中の自分を見て苦笑する。あまりに酷い寝癖だ。手櫛で髪を梳かしてみるが、それだけでは全く収まる気配がない。手を離すと、毛先は再び四方八方に跳ね上がった。
――これはひどいな。後で直してもらわないと。
そこまで思ってからはたと気づいた。思わず洗面台に流れる水を見つめたまま動けなくなる。
……誰に、だ?
鏡の中の自分と再び目が合う。その瞳は、僕に向かって何かの警鐘を鳴らしているようだった。鏡の中の自分をじっと見つめてみるが、その正体はわからない。
しばらくそうして寝癖の自分に見つめられて、ふっと笑ってしまった。
――気のせい、だよな。
目を瞬かせ、もう一度鏡の中の自分を見つめ直す。いつも通りの自分だった。
何かを感じた気がする。もしかして新たな敵が出現する予兆なのだろうか。一瞬そんなことを思って耳を澄ませてみるが、風が騒ぐ声は聞こえなかった。
車のキーと一緒に玄関に置かれたリップロッドの存在を思い出した。"一応"、いつでも持ち開けるように、と置いてあるのだ。
まさか、な。僕は一瞬頭に浮かんだ想像を振り払い、リビングに戻った。
ダイニングテーブルにはせつなとほたるが横並びで座っており、その正面に僕の朝食が置かれていた。いつも通り、その席に座る。手元に置かれたパンとコーヒーの香ばしい香りを鼻から吸い込んだ。
その時、――本当に意識せず、なんとなく、なのだが――左隣の席を見た。もちろんそこは空席である。
――あれ?
そこでまた違和感を覚えた。
なぜ今僕は左隣を向いたのだろう。誰も座っていないということは明白だと言うのに。しかも、まるで習慣かのように自然な動きだった。
自分で言うのも何だけど、僕は普段あまり無駄な動きをしない方だと思う。だからこそ、自分で自分の動きにとても不自然さを感じた。
……そうだ。目覚めた時もそうだった。僕は左側に確かに違和感を感じたのだ。そう、何か物足りないような。
僕が朝食に手をつけずに考え事をしていることに、ほたるは気づいたらしい。
「どうしたの、はるかパパ」
「あのさ。なんか今日、いつもと違わないか」
顔を上げて、ほたるとせつなに尋ねた。二人はきょとんとした様子で僕の顔を見つめる。
「何も違わないと思うけど」
ほたるは怪訝そうな顔でそう返す。せつなも呆れ半分心配半分、といった顔で
「違うと言えば、はるか、その寝癖どうしたんですか。いつもは朝食前にちゃんと直していたと思いますが」
と言った。
「寝癖……。
なあせつな。この寝癖、いつもどうしてたっけ」
僕が重ねてこう質問するものだから、その顔はますます僕を訝しむ表情になった。
「何を言ってるんです」
「あ……いや。なんでもない。
じゃあさ、ほたる。昨日僕のベッドで一緒に寝たっけ?」
僕の質問に、ほたるはまた首を傾げた。
「ううん。昨日は一人で寝たよ。一緒に寝てたのなんて、もう随分前のことよ。はるかパパ、今日は何か変だね」
「そう、だよな。じゃあまさか……」
せつなが? と言いかけて、やめた。せつなは眉を顰めてこちらを見ている。
「いや、ごめん。気にしなくていい」
そう頷いて、僕はもうこの話題を口にするのはやめた。どうやら何かの違和感を感じているのは僕だけのようで、二人はそんな僕に対しての違和感しか感じていない。僕はコーヒーを啜り平静を装いながら、この違和感の正体について考えていた。
「じゃあはるか。行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
せつなとほたるを見送って、僕は一人でリビングのソファに座った。
結局しつこい寝癖はちょっとやそっとのことじゃ直らなかったから、僕はシャワーを浴びて全てリセットすることにした。首にはまだタオルが巻かれ、髪はしっとりと重みを持っている。
二人は今日、土萌教授に会いに行った。ほたるの養育を始めてからもうすぐ二年。戦いは全て終わり、ほたる自身も土萌ほたるとして今の人生を生きることにすっかり慣れた。土萌教授も徐々に回復しており、もうあと数ヶ月か、長くても一年以内に完全に日常生活に支障がないレベルになると聞いている。転生して急成長したほたるについては、記憶の回復の過程で都合よく受け入れられたらしく、本人が望むならまた二人で暮らしたいという思いがあるようだ。
僕とせつなはもちろんそれに賛成した。ほたると一緒に暮らせなくなるのは寂しいが、ほたるが本来の場所に戻ることに反対する余地などない。それに、一緒に暮らさなくなったからと言って、全く会えなくなるわけではないのだ。
ほたるが元の場所に戻ったら僕とせつなも……別々の道を歩むことになるだろう。元々セーラー戦士という繋がりがなければ出会っていなかったし、ほたるという鎹がなければ一緒に暮らすことなどあり得なかったと思う。ほたるにはパパ、ママと呼ばれていたけれど、それはほたるにとっての役割を表す呼称でしかなかった。
――ほたるがいなくなったら僕は……どうしようかな。
最近よくそんなことを考える。僕はもうレーサーとしてある程度生活の見通しも立つようになってきたし、家族からとやかく言われるような状況でもないから、天王家に戻る必要はない。この街を離れて、海の見える家で二人でのんびり暮らす、そんな生活も悪くないな。そんなことを思っていた。
そんなことを思い出していたら、頭にまた閃光が走るように違和感が駆け抜けた。ソファに沈めていた身体を、音が立つほど思い切り起こす。
――二人で、暮らす?
僕はなぜそんなこと考えていたのだろう。
二人……「誰と」二人なのだ。せつなか。一瞬脳裏にせつなの顔がちらついたが、首を振る。つい先ほど、せつなとはもう一緒に暮らすことはないだろうと思っていたばかりだ。
だったら、将来的に誰かを呼ぶつもりだったのだろうか。いや、それも違う。何かに縛られるのが嫌いな僕が、必要に迫られないのに「誰かと一緒に暮らす」ことを想定するはずがない。
そもそもなぜ、「海の見える家」がいいと思っていたのだろう。僕は海は嫌いではないしどちらかと言えば好きだとは思っているけど、毎日海を見ていたいほど好きかと言われるとそうでもない。見に行きたければ車に乗って見に行けばいいだけだから、わざわざ海沿いに住もうと思ったことが自分でも不思議だった。
……まただ。また何か物足りないような感じがする。僕は明らかに、「何か」を忘れている。
僕は思わず頭を抱えた。落ち着け。そう心の中で唱える。そして深呼吸。それから顔を上げ、部屋を見回した。何か、ヒントになるものはないだろうか。
まず見えたのは、時計だった。今日僕は一日オフだから、予定がない。せつなとほたるも夕方まで帰ってこないと思うから、数時間は一人の時間を過ごすことになる。
この数時間、何をしようか。せめてこのもやもやがすっきりしてくれればもう少し楽しめそうなものだが、それにしたって特に予定もないから退屈ではある。
いや、でも。
僕はふと思い直した。前回せつなとほたるが外出した時は、もっと喜んでいなかったか。今日は二人でゆっくりできる……そう思っていた。
にもかかわらず、僕にはその日に誰かと一緒に過ごした記憶がない。そればかりか、その日何をして過ごしたのかすら、とても曖昧だ。
ヒントになるものを探していたはずなのに、ますます頭の靄が広がってしまった。僕は湿り気を帯びた髪を手で掻いてから、ため息をついて立ち上がった。お茶でも飲もうかと、カップボードに手を伸ばして、手を止める。
――このマグカップ……。
使おうと思ったのは薄いグリーンのマグカップ。その隣には、同じ形の薄いブルーのマグカップがあった。確かこのマグカップは、この家に住み始めてから二つ揃いで買ったものだ。
二つのマグカップを手に取り、じっと眺めてみる。シンプルだけれど少しくすんだパステルカラーが綺麗で、小さな星が散りばめられたように刻印されたおしゃれなデザインだ。
これを買う時に、誰かと会話をしながら選んだ。そう、確か……。
――これで君に美味しいコーヒーを淹れられるな。
――あら。私が淹れてもよくってよ。
そんな話を、した。
せつなじゃ……ないよな。
自分で自分に問いかけてから、頷く。先ほどからこの違和感のたびにせつなの存在が過ぎるが、その可能性がないことはもう確信していた。
何か……あと少しで何かを思い出せそうだった。
マグカップにお茶を入れて、再びリビングのソファに戻った。ローテーブルにカップを置いて、部屋をぐるりと見回す。
何か他に、手がかりはないのか。
僕の目は、サイドボードに置かれた写真に止まった。おだんごたちと撮った写真、今はもう地球から去った、あの鼻につく三人組のアイドルの写真。僕は思わず顔を顰めた。
――全く、おだんごたちの写真はともかく、何故あいつらの写真までこんなところに飾られているのだろう。
視線を右に移すと、もう一枚。せつなとほたると三人で撮った写真。
それが目に入った瞬間、僕は思わず駆け寄り、手に取った。背中がすぅっと冷えるのを感じる。途端に息が詰まるような緊張感を覚えた。
――やっぱり。
僕の隣に明らかに不自然な空間があるその写真を見て、僕は呆然と立ち尽くした。