随分時間が経ってから、僕は目を開けた。
どれくらいの時間、ここにいたのだろう。陽が傾きかけていた。僕が車を停めていた場所は先ほどまで日なただったが、いつの間にか太陽が木の影に隠れ、空気がひんやりと感じるようになっていた。
駐車場には随分空きができていて、公園で遊ぶ子どもの人数も減っていた。そんなにも長い時間、ここにいたというのか。
僕はゆっくりと車のシートから身を起こす。カセットテープはとっくに再生を終えていた。取り出しボタンを押すと、カチャリ、という音と共にカセットテープが中から出てくる。
結局この公園で何かすることはなく、買ってきたパンも食べなかった。車を降りずにそのまま駐車場を出て車を走らせる。
違和感の正体がわかってすっきりしたのも束の間、今度は新たな事実を突きつけられて、僕は途方もない絶望感に陥っていた。
――何故、みちるはいなくなったんだ。
それも、物理的に存在を消しただけではない。僕やせつなやほたるの記憶からも消えていた。何故。どうして。どうやって。
「……くそっ」
思いをぶつける先はなく、言葉は風と共に後方に消えた。車のハンドルを強く、手が白くなるくらいに握り締める。
逸る気持ちを抑えながら、僕は車を走らせた。帰ったら確認しなければならないことがある。
大急ぎでガレージに車を停め、玄関に走る。せつなとほたるはすでに帰宅していた。
「ああ、はるか。おかえりなさい。私たちも先ほど帰宅したばかりです」
「せつな」
挨拶もそこそこに、僕は真っ直ぐせつなの元に歩いていった。聞きたいことが多すぎてせつなに掴みかかってしまいそうな勢いだったが、深呼吸をして心を落ち着かせる。
「どう、したんですか?」
やや前のめりな僕の勢いに気づき、せつなが半歩後退りをする。ダイニングテーブルに座っているほたるがこちらを向くのが、視界の端に見えた。
僕は喋り出す代わりに思い切り息を吐いた。そうでないと、言葉が溢れてきてしまいそうだった。そしてやっと、絞り出すようにその名前を問う。
「みちるを……海王みちるを、覚えているか」
僕は問いながら、せつなの表情の変化をじっと見つめていた。せつなは僕をじっと見つめ返しているが、その表情に大きな変化はない。
「海王……みちる、ですか」
せつなは呟いてから、自分の記憶を探るように視線を上に動かした。しかしその瞳はすぐに僕の元に戻ってくる。
「覚えていないですね。はるかの知り合いでしょうか」
そうか、と呟いたが、ほぼため息のような掠れた声しか出なかった。予想通りの反応だったのだが、絶望的な事実を再確認するのはやはり辛い。
「じゃあ、セーラーネプチューンは」
重ねて僕はせつなに聞いた。せつなは目を瞬かせる。セーラー戦士のことを話題にされるとは思っていなかったようだ。
僕の……セーラーウラヌスの唯一無二のパートナー、セーラーネプチューン。みちるのことを思い出したら、当然のようにネプチューンの記憶も蘇った。
僕にセーラー戦士としての覚醒のきっかけを与えたのはみちるだ。なのに、今朝は全く思い出せなかったことが本当に不思議でならない。
せつなも同じ外部太陽系戦士として過酷な戦いを乗り越えた仲間同士だ。セーラー戦士の名前を出せば、何かピンとくるものがあるのではないだろうか。
そう思って再びせつなの表情をじっと観察していたが、やはり大きな変化はなかった。
「いいえ。ネプチューンというと海王星……の戦士でしょうか。現れたのですか?まさか、新たな敵?」
落ち着いて答えたせつなの声が、最後は少しだけ焦るようなトーンに変わる。僕は黙って首を振った。
「ネプチューンは僕らと同じ、外部太陽系戦士だ。僕たちの仲間だ」
せつなは驚いたような顔で固まった。辛うじて一言だけ呟く。
「な……なにを言っているんです。はるか」
「なあせつな。覚えていないか。僕ら、ずっと一緒に戦っていただろう」
戸惑った表情をしているせつなに、僕はもう一度聞いた。
「僕がタリスマンを抜かれた時。みちるも、ネプチューンも、一緒だった。君もそこに現れただろう。
ほたるが転生したあともそうだ。一緒にほたるを育てようと決めてこの家に来た。その時もみちるは一緒だった。そして昨日までずっと一緒に暮らしていたんだ。
それから……ああ、そうだ。ギャラクシアとの戦い。僕たちはギャラクシアに従ったふりをして君たちのことを攻撃しただろう。僕とネプチューンの二人で、だ」
僕は一つ一つ思い出し、僕自身に確認するような気持ちで話した。
――そう、確かにみちるとセーラーネプチューンは存在していたのだ……。
会話の合間にほたるにもちらりと目線を向けたが、せつなと同様、戸惑ったような表情を浮かべてこちらを見ているだけだった。
せつなはしばらく黙っていたが、やがてぎこちなく首を左右に振った。
「はるかが冗談を言っているようには見えません。ですが……すみません。
あなたが言うみちるという人物は、セーラーネプチューンという戦士と同一なのですね」
僕は頷いた。せつなは僕の話を真剣に聞いてくれてはいるものの、まだどこか信じきれないと言ったような顔をしている。
「どうして急にそんなことを言い出したんです」
せつなにそう聞かれ、僕は朝起きてからの出来事について説明した。起きてすぐに様々な違和感を感じたこと。僕と親密だった人物がこの家にいた可能性に気づいたこと。
「ほら、この写真」
僕はサイドボードに駆け寄り、今朝見た写真をせつなに見せようとした。
しかし写真を手にした僕は、ある事に気づいて愕然とする。
――何故だ。
「写真がどうしたのですか?」
せつなもこちらへやって来た。ほたるも立ち上がり、こちらに近づいてくる。
僕は固まったまま写真を見つめていた。
写真の中の僕は、こちらを向き微笑んで立っていた。
午前中に見た時、確かに僕は、そこには写っていないみちるの腰に手を回し、まるで愛おしむような視線を送っていた。カメラの方などまるで見ていなかったはずだ。
しかし今、写真には……せつな、ほたる、そして僕が正面を向いて立っているだけだ。
――まるで、家族写真のように。
「はるか?」
突然静止した僕に、せつなが不思議そうな顔で問いかけてきた。僕は震える手で写真をサイドボードに戻す。
「……いや」
混乱する頭のまま、今度はふらふらとカップボードに向かう。おぼつかない手で扉を開けた。
「……ない」
今朝確認したはずの薄いブルーのマグカップが、なくなっていた。
――そんなはずは……。
念の為、シンクも覗いた。今朝僕が使った薄いグリーンのマグカップだけがそこに置かれている。だがそれ以外の食器が使われた形跡はない。そのままダイニングテーブルとリビングのローテーブルまで視線を走らせた。帰ってからせつなやほたるが使った様子もない。
「はるか、一体……」
せつなが心配そうに声をかけてきたが、僕はそれに答える前にもう一つ思い出したことがあった。慌ててパンツのポケットを探る。
――カセットテープ……。
前、後ろ、それぞれのポケットを探った。
確かにポケットに入れて帰ってきた。だが、ない。つい先ほどまで、ポケットの中の角張ったケースの感覚が、地肌にしっかり伝わってきていたと言うのに。一体いつの間に消えてしまったのだろう。
僕は慌てて玄関を飛び出し、ガレージの車に向かった。
「はるか!」
せつなが驚いて呼び止めるのが背後から聞こえたが、構わず外に飛び出す。僕は車に駆け寄ると、運転席、それから助手席のシートを確認し、足元も隈なく探した。カーステレオの中も改めた。今日は使用しなかった後部座席まで徹底的に調べた。
諦めきれずに車の下まで調べて、それでもあのカセットテープを見つけることができないとわかり、ようやく僕は探すのを止めた。地面に膝をついたまま車に額を寄せ、車体に拳を当てる。
――どうしてなんだ、みちる。
どうして君は、消えてしまったんだ……。
突然家を飛び出し、数十分経ってからようやく家に入った僕を、せつなとほたるはとても心配した様子で出迎えた。
「大丈夫ですか、はるか」
「パパ……」
二人にきちんと説明したい気持ちはあったが、僕自身がまだ混乱していて、何を言ったら良いかわからないでいた。
僕の視線は、せつな、ほたるに移り、それから宙を泳いでもう一度せつなに戻ってきた。
掠れた声で、辛うじてせつなにこう言う。
「悪い……しばらく一人にしてくれないか」
それからしばらく一人で考えていた。あまりに奇怪なことが連続して起きるので、もはやこれは僕の幻想なのではないかと思い始めていたところだ。
昨日まで見ていたみちるは、戦士としての覚醒を促すために僕の空想によって作られた架空の人物。セーラーネプチューンは、僕を使命に向かわせるために作り上げた、現実逃避のためのパートナー。
戦いが終わり、僕にはみちるもネプチューンも必要なくなった。だから僕の幻想も終わってしまったのではないか、と。
――だが……。
僕は膝の上で自分の手のひらを見つめた。開いてから、握る。
だが……僕は確かにみちるの身体に触れ、心を通わせ、体温を感じていた。僕は彼女に手を握ってもらったし、キスもされた。時には僕の背に手を回し、優しく抱きとめてくれた。僕からも同様に、たくさんの愛情を注いでいたつもりだ。
彼女を夢中で抱いて、互いに全てを曝け出したあの記憶すら、嘘だったというのだろうか。
昨晩もみちるは、僕の腕の中で眠ったのだ。僕の左腕はまだ、その感覚を憶えている。
――もしこれが幻想だというのであれば、僕はずっとずっと、幻想の中にいたかった……。
僕は記憶にある限りのみちるの姿を反芻し続けた。そうしないともはや、この幻想を見ていたことすら忘れてしまいそうで。
僕はずっと、僕だけに見えていたみちるのことを考え続けていた。