「ウラヌス」
はあはあと息を切らしながら、みちるはウラヌスに声を掛けた。一方ウラヌスは、息一つ乱れない状態で立っていた。みちるは膝に手をついて息も絶え絶えにウラヌスに声をかける。
「どうして、ここに」
なぜここにいるのか。なぜ自分から逃げようとしたのか。なぜこの場所まで来たのか。聞きたいことが溢れそうだったが、荒れた息の合間から出たのは一言だけだった。
ウラヌスはみちるの質問には答えず、前かがみで息を吐くみちるを見下ろすだけだった。みちるは顔を上げて、その表情を伺おうとする。眠りに就く直前まで自分ははるかと共にいてその手に触れていたのに、今みちるの目の前にいるウラヌスは、はるかとは似ても似つかない、自分から遠く離れた存在のように感じられた。
「はるか?」
気づいたらみちるは、その名前を呼んでいた。身体を起こし、真っ直ぐにウラヌスを見つめる。ウラヌスもみちるの動きに合わせて顔を上げた。鋭く冷たい視線がまっすぐにみちるに向けられ、思わずどきりとする。その表情を見たらますます、目の前のウラヌスが全く知らない人のように見えてきた。
「あなたは、誰」
じり、と後ずさりをしながら、みちるは震える声で呟いた。先程までの恐ろしいほどの息苦しさはだいぶ和らいでいたが、代わりに得体の知れない恐怖感に身を包まれていた。良く知っているはずのパートナーが、全く知らない人に見える――その事実が、みちるを包む空気から、足元から、じわじわと冷たいオーラとともに忍び寄る。
やがて、みちるをじっと見つめていたウラヌスが口を開いた。
「僕は、君の中の闇だ」
その声も、普段のはるかもしくはウラヌスとは結びつかない、冷たく凍るような声だった。少なくともみちるに対してはるかは――みちるに対して心を開く以前も――こんなに冷えた声を出すことはなかった。みちるは半分ショックを受け、残りの半分は警戒しながら、ウラヌスを見つめ返す。
「闇?」
みちるがそう聞き返したのに対し、ウラヌスは何も反応せず、冷たい視線を向けたままだった。
「僕を倒さなければ、君は前に進むことはできない」
ウラヌスは一言だけ、そう言った。
「どういう、こと」
みちるは胸元に手を当て、聞いた。そうしていないと自分の心臓が跳ねて、制御が効かなくなってしまいそうな、そんな不安に駆られていた。胸に当てた手からはじわりと汗が滲み、心臓の鼓動が大きく伝わってくるのがわかった。喉もからからに乾いている。ここは夢の中のはずなのに、驚くほどにリアルな感覚だった。
「みちる、君ははるかと一緒にいても幸せにはなれない」
恐ろしいほどの冷たい声で、ウラヌスがそう言った。みちるの背筋がぞくりと冷える。
「本当はわかっているんだろ」
――え?
みちるは声を発することができないまま、ウラヌスの顔を穴が空くほどの思いで見つめていた。なぜ突然そのようなことを聞かれたのか。ウラヌスの質問の意図が理解できなかった。
「僕と一緒にいても、社会的に認められた祝福を受けることはできない。わかっているはずだ」
みちるのこめかみを、一筋の汗が伝った。目の前のウラヌスはいつもとまるで様子が違うのに、急にその呼びかけがリアルに耳に響いてきた。ウラヌスが自らを”僕”と呼んだせいだろうか。
――あなたは、はるかなの?
みちるはウラヌスを黙って見つめていた。
これは敵の罠かもしれない。騙されてはいけない。心の中から警戒心が湧き上がってきた。目の前にいるウラヌスはウラヌスではない。あまりにもいつもと違う。自分を惑わそうとしている別の存在か、敵によって操られているのだ――そう自分に言い聞かせ、睨み返す。
しかし、突如ウラヌスがふっと表情を緩めた。鋭く寒々しい表情から一転して、優しく穏やかな表情になり、みちるは軽い動揺を覚える。
「ああ……そうだ。君は抱擁の戦士だった。きっと僕が何を言おうと、僕のありのままを受け入れるのだろうな」
ウラヌスは一歩、みちるに近づいた。その意図がわからず、みちるは一歩後ろに退く。
「おいで、仔猫ちゃん」
ウラヌスが、猫なで声で囁いた。みちるはウラヌスの急な変化に戸惑っていた。ウラヌスの囁きは、まるではるかが道行く女の子に声を掛けているときのような、甘い雰囲気だった。
――私には使うことのない、はるかの外向きの声。
なぜ今ウラヌスがそんな声色で話しかけて来るのだろうと思っていたら、ウラヌスの背後から急に誰かが現れた。顔ははっきりとは見えなかったが、スタイルの良い女性であることは、シルエットから窺える。新たな敵の出現かとみちるが身構えると、その女性はウラヌスの身体に絡みつくようにまとわりついた。
「一緒に遊ぼう」
ウラヌスは女性に視線を向け、そう言った。みちるは警戒心を緩めないまま、しかし戸惑いながら、二人の様子を見ていた。
「いいの?」
「ああ。いいんだ。みちるのことは」
突如、女性がうっとりとした甘い声を出し、それに応えるようにウラヌスからみちるの名前が発せられた。みちるは眉を顰める。
「僕は縛られたくないんだ」
ウラヌスが言った。みちるはその言葉に思わずドキリとする。
「誰か一人の傍にずっといるなんて、性に合わない。僕は戦士になんかなりたくなかった。僕は自由だ。だから君と遊んだって構わない」
ウラヌスはそう言って、女性の腰に手を回した。女性はウラヌスの頬に手を伸ばす。ウラヌスはそれに応え、女性に顔を近づけた。そして、みちるが見ている前で、二人は口づけを交わし始めた。
突然始められた行為を、みちるは愕然としながら見つめていた。女性は顔がはっきりと見えないにも関わらず、妙にリアルにウラヌスと絡み合っているように見えた。ウラヌスは女性の髪をかき乱し、自分の唇を深く女性に押し付けていた。
その口づけの合間に、ウラヌスは薄く目を開けた。耽美で妖しさのある視線がみちるを撫でる。みちるの背筋にすっと寒気が走った。ウラヌスは女性から口を離し、囁くように言った。
「みちるは、もういらない」
ウラヌスの囁きに、女性が喜びを示すかのようにウラヌスの首に腕を回して抱きついた。ウラヌスは女性を抱きとめてもう一度口づけたあと、女性の胸元に手を伸ばす。
「やめて!」
気づいたら、みちるはそう叫んでいた。顔を覆い、しゃがみ込む。激しく動悸がして、一度落ち着いたと思われた呼吸がまた乱れ、息をはあはあとついていた。今や冷静さは失われ、身体からは冷や汗がにじみ出ていた。
しゃがんでいたみちるからは見えていなかったが、ウラヌスは女性に触れる手を止め、顔を上げてみちるを見つめた。それから口角を上げて微笑む。蔑むような冷たい目線を投げつけながら、ウラヌスは言った。
「もう、僕のことを縛るのは、やめろよ」
ウラヌスの言葉に、みちるは俯いたまま耳を塞いだ。
「違う……私は……」
「君が僕にきっかけを作ったんだろう」
ふっと鼻で笑うような声と共に、ウラヌスが言った。みちるは思い切り首を振る。頭ではこれが自分を惑わそうとする敵の策略かもしれないと思っていたのだが、目の前でウラヌスが見知らぬ女性を抱き、自分を否定するのは、耐え難いことだった。
――違う、これはウラヌスでもはるかでもない。騙されてはいけない……。
みちるはどうにかして先程まで見ていたウラヌスの情事を頭から追い出そうとしていたが、どうしても脳裏にその様子が浮かんできてしまい、離れない。加えて、ウラヌスはいつものはるかの声でみちるを煽ってくる。
「迷惑してるんだ、僕は」
ウラヌスはため息をついた。
「君が僕を戦士になどしなければ、僕は夢を追い続けることができたというのに」
ウラヌスの言葉に、みちるは歯をぐっと食いしばった。また、強く首を振る。
――違う……違う……。
みちるは心の中で唱え続ける。コツ、コツ、と足音がしてウラヌスが近づいてきた。みちるは顔を上げず、近づいてくる足だけ見つめる。
ウラヌスはみちるの傍に来て、跪いた。俯いていたみちるは、覗き込んできたウラヌスと目が合う。じとりと撫で回すような視線は、意地の悪さを含んでいるにも関わらず、どこか美しくて目が離せない。それはみちるの心の奥を疼かせ、かき乱した。
――やめて。はるかの目で私を見ないで。
みちるはウラヌスの瞳を見つめながら、心の中でそう叫んだ。強張り、瞳を潤ませるみちるに、ウラヌスは口端を上げて笑う。
「もう、恋人ごっこは終わりにしよう」
みちるは震えながら、ウラヌスを見つめていた。
「もう、やめて……」
みちるは微かな声で呟いた。ウラヌスがふっと息を漏らして笑う。
ウラヌスの右手に、宇宙剣が現れた。ウラヌスはしゃがんでみちるを覗き込みながら、その鼻先に切先を突きつけ、低い声で呟く。
「戦え」
みちるは動けなかった。視線は剣の先端を超え、その先のウラヌスの瞳を見つめていた。例えそれが敵に仕組まれた罠か幻覚か、あるいはただの夢か、そのいずれであってもウラヌスが自分に対し剣を向けているという事実を、信じたくなかった。
自分が冷静さを失っているということは、みちるもよくわかっていた。
しかし、一方でそれは想像以上に鋭く心に刺さってきていることも、また実感していた。ウラヌスの言っていることは、みちる自身が常に懸念し、心に引っかかっていることでもあったのだ。これまで、この薄暗い懸念が心の中に浮上するたびに、みちるは自分に言い聞かせ続けてきていた。
――はるかは、戦士になりたくなかった?
――違う。彼女が戦士として覚醒したのは使命なのだから仕方がない、彼女自身も理解してくれている。
――私が縛り付けてしまっているの?
――そんなことはない。彼女は自分自身の意志で私と共にいる。
しかし、改めてその懸念を彼女自身の口からはっきりさせられると、急に現実的なものになる。自身に言い聞かせ続けた言葉は脆くも消し飛び、心の中がウラヌスの声で支配される。
――僕のことを縛るのは、やめろよ。
やめて!
――恋人ごっこは終わりにしよう。
いや!
みちるは居たたまれなくなって目を瞑り、思い切り後ろに飛び退いた。ウラヌスと五メートルほど距離を取ってから、さっとロッドを掲げた。
みちるはその場でセーラーネプチューンに変身すると、すぐに腕を掲げて攻撃の体勢を取った。ネプチューンの頭上にみるみるうちに水が集まり、水球が出来上がる。いつでも攻撃を放つことができるサイズにまで水球が大きくなったが、ネプチューンはそれを放つことなく、静止した。
ウラヌスはネプチューンに剣を向けたまま、笑った。
「どうした。やれよ、ネプチューン」
ウラヌスに煽られ、ネプチューンは睨むように目を細めた。それから、いつも通りに技を繰り出した。
「ディープ・サブマージ!」
近い距離で放たれた水球はまっすぐウラヌスに向かったが、ウラヌスは難なくそれを避ける。水球はまっすぐ進んで瓦礫に当たり、四方八方に水が飛び散った。
「そんなんじゃ僕を倒すことはできないよ」
楽しそうに言うウラヌスを見て、ネプチューンは唇を噛んだ。
放たれた攻撃に全く力が籠っていないことは、ネプチューン自身がよくわかっていた。彼女自身が、ウラヌスを攻撃することを望んでいないのだ。
ウラヌスは剣を自分の前に掲げた。剣越しに二人の目が合う。次の瞬間、ウラヌスはネプチューンに向かって駆け出し、剣を振りかぶった。
一拍遅れて、ネプチューンはウラヌスが自分を攻撃しようとしているのだと気づき、咄嗟に避ける。自分がいた場所に剣が振り下ろされる瞬間が見えた。その動きから、ウラヌスが本気で自分を攻撃しようとしていることを感じる。
シュッと強く風を切る音がして剣がまた振り上げられ、ウラヌスがこちらに向かってくる。彼女の動きはまさにいつものウラヌスそのもの、あるいはいつも以上に素早くて力強さがあり、ネプチューンは避けるので精一杯だった。何度も振るわれる剣を、ネプチューンは右に左に必死に動いて避けた。
「やめて、ウラヌス!」
三度、四度ほど繰り返された攻撃を躱したあと、ネプチューンは叫んだ。同時に、身体がバランスを崩して、地面に座り込むような姿勢で倒れる。ウラヌスは追い詰めるようにネプチューンの前に立ち、再び剣の先を向けた。
「なぜ戦わない」
ウラヌスは鋭い視線でネプチューンを見下ろし、冷たい声で呟く。ネプチューンは座ったまま、上体を起こしてウラヌスに身体を向けた。ウラヌスを見つめたままで、震えながらゆっくりと首を振る。
「あなたとは戦えない」
「なぜだ。僕を倒さなければならないのはわかってるんだろう」
ネプチューンはウラヌスから目を逸らさずに見つめ続けた。ウラヌスが本物なのかどうかはさておき、彼女の言う通り、状況を変えるには攻撃しなければならないのだろうということは理解していた。
それでも――ネプチューンはまた、小さく首を動かす。
「戦えない」
気づいたら、一筋の涙が頬を伝っていた。ネプチューンにとって、目の前のウラヌスが全く違う人格になってしまっていること、そして、自分を傷つける行為を行ったことが悲しかった。
――私も、甘いわね。
ウラヌスを攻撃することは、自分には絶対にできない。ネプチューンはそう思った。それをわかった上で敵がウラヌスを使って自分に対抗してきたのであれば、大したものだと感心すらしてしまう。どこの誰だかは知らないが、よく自分のことを理解して攻撃してきているものだ。自分にとってウラヌスは、最大の弱点なのだから――。
ウラヌスは表情を変えずに、ネプチューンを見下ろしていた。低い声で呟くように問う。
「それが君の答えか」
ネプチューンはゆっくりと頷いた。
ウラヌスは改めて剣を振りかぶる。その瞳は、まっすぐにネプチューンを狙っていた。それから剣はネプチューンに向け振り下ろされた。ゆっくりとしたモーションで掲げられた剣が自分に向けて落ちてくる様子を、ネプチューンは見つめていた。
ネプチューンは目を閉じた。涙がもう一筋、流れるのを感じる。
「はるか」
最後の最後で脳裏に浮かんだのは、やはりはるかの姿だった。優しく微笑み、自分に手を伸ばしてくれている。
記憶の中の、優しくて自分を思ってくれるはるかの姿。敵の策略とはいえ、一瞬でも惑わされ、はるかの気持ちを疑ってしまったことに後悔の念が浮かぶ。
それから同時に、無限学園での戦いでミストレス9に身体を乗っ取られた土萠ほたるを、一切攻撃することなく戦いを終わらせた、セーラームーンの姿が頭を過ぎった。
――今なら少しだけ、あの時の彼女の決断が、わかる気がする。
「信じているわ」
剣が自らを貫く瞬間、ネプチューンはそう呟いた。