今日は、珍しくみちると言い合いになってしまった。
きっかけは些細なことだったと思う。僕が使ったものをいつもと違う場所に片付けてしまった……とか、それくらいの小さなことだ。そこでみちるが小言のように言った言葉を聞き逃せずに言い返してしまった。みちるも僕の言葉に乗ってしまった。そこからは、お互いに険悪なムードだ。
僕達は二人で過ごしている時は基本的にいつも穏やかな性格だが(僕については、鼻につく男が周りにいなければいつだって穏やかだと思う)、どうしたって違う人格を持つ人間同士、すれ違うことはある。特に、どうしても身体の周期的な問題で感覚が繊細になったり、感情が昂りやすい時期もあるから、そういう時は小さな言葉が引っかかりやすいタイミングでもある。
僕とみちるでそのリズムが噛み合ってしまうのは、年に一度あるかないか。噛み合わなければ、どちらかがイライラしてもどちらかが制することができる。今回は運悪く噛み合ってしまったから、二人で正面衝突してしまった。
僕は外に出てバイクに跨り、夜の街に繰り出した。もう遅い時間だったけれど、同じベッドに同じタイミングで入るには、今夜は都合が悪い。もう時刻は二十三時を回っていた。一時間ほど走って戻れば、みちるが眠った後にベッドに潜り込むことができるだろう。
険悪なムードになったとは言え、いつもは長くても丸一日もあれば、お互いに昂っていた感情が落ち着いて仲直りする。それはわかっているのだけれど、どうしても今はまだお互いその気になれないから、少し頭を冷やす時間は必要なのだ。
車通りの少ない海沿いの道を選び、加速した。夜風が耳を掠め、あっという間に後ろへ過ぎ去っていく。
一人で走るのは嫌いではない……むしろ、みちると出会うまではずっと一人で走っていたはずだ。だけど、最近は車の助手席にもバイクの後部にも常にみちるがいるから、いざ一人で走りに来ると無性に寂しくなってしまう。
だから僕はたいてい、予定より早く帰宅することになる。
結局、日付が変わる前に帰ってきてしまった。それでも、家は暗くしんとしていた。みちるはもう寝室に入ったらしい。
あまり音を立てないように中に入り、シャワーを浴びる。諸々の身支度を済ませてから、暗くなった寝室に滑り込んだ。
みちるの静かな寝息が聞こえる。薄暗い中だが、ベッドにはみちるの膨らみが見え、僅かに上下動していることが感じられた。
僕はみちるを起こさないようにこっそりとベッドに潜り込もうとした。
その時。
「……っ!!」
声にならない叫びを上げながら、みちるが思い切り上半身を起こした。急な出来事に、僕は思わず声をあげてしまう。
「みちる?!」
みちるは宙の一点を見つめたまま顔を凍りつかせ、はっはっ、と短く浅い呼吸をしていた。ネグリジェの胸元をぎゅっと掴んでいる。よく見ると額に汗が滲んでいるのが暗がりでもわかった。明らかに、何かとても恐ろしいものを見た様子だ。
その顔を見たら何も言えなくなり、僕はただ固まってみちるのことを見ていた。
数十秒ほど待っていたら、次第に息遣いが落ち着いてきて、強ばったみちるの身体が少し緩んできたように見えた。みちるがこちらを見る。
「ウラヌス……」
出てきた言葉は、僕の名を呼ぶものではなかった。もうずいぶん前に戦士としての戦いは終わり、使われなくなったはずの名前。なぜ今それがみちるの口から出てきたのだろう。
僕はなお固まったままみちるを見つめていると、みちるがはっとしたような顔になった。
「ああ……違うわ……はるか。よかった……!」
みちるは縋り付くように僕に抱きついてきた。状況がわからず、僕は唖然としたままそれを受け入れる。みちるは僕の胸元に顔を押し当て、しがみつくような形になっていた。そしてすぐに、胸元に温かい感触がした。……おそらくみちるの涙だ。Tシャツにじんわりと染み込むのを感じる。
すぐに答えられる状況ではないだろうと思い、僕はしばらくみちるを胸に抱き、頭を撫でていた。みちるの身体から震えが伝わってくる。
その震えが収まってきた頃、みちるはようやく顔を上げた。目元と頬が涙に濡れているのがわかる。
「夢を……見たの」
みちるは呟いた。
「夢?」
僕が問うと、みちるはこくりと頷いた。
「ウラヌスの夢よ。前世の。
いつもそうなの……あなたと喧嘩すると、ウラヌスの夢を見る。だいたいいつも何かと戦っているわ。戦って勝って終わるか、戦っている途中で目が覚めるか。私は遠くからそれを見ているだけ」
みちるはそこで一旦言葉を切る。そしてまた何かを思い出したように小刻みに震え始め、強ばった顔になり、自分の腕を抱いた。
「でも……今日は違った……。ウラヌスが苦戦していたの。だから私は加勢しに行ったわ。……ネプチューンとして。
そして……そして私……」
みちるが、今度は顔を覆う。
「敵と、揉み合いに、なっていたの……だから、その中に入って無我夢中になっていて……気づいたら、宇宙剣で……ウラヌスをっ……」
みちるがまた涙を流し始めたので、僕はその肩を抱いて、自分の方へ引き寄せた。
「なぜ、私が宇宙剣を……握っていたのかは、わからない……の。気づいたら……。
でも……すごく、生々しい、感覚で……いつもとは、違って……」
「みちる、もういいから」
すすり泣きながら話すみちるがあまりに苦しそうで、僕は思わず制した。みちるの背中に手を回し、片手でさすりながら抱く。
みちるは止めたにも関わらず、話し続ける。
「はるかを見たら……ウラヌスと、重なったの……だから、驚いて……」
「君が見たのは夢だし、前世のウラヌスだ。大丈夫だよ」
みちるは僕に抱かれながら、首をふるふると振った。
「ウラヌスが死ぬのは……はるかが死ぬのと同じくらい、怖い」
みちるが僕を見上げて言った。その瞳が、かつてのセーラーネプチューンのものと重なる。
僕は思わず息を呑み、そして頭を軽く振ってネプチューンの姿を振り払った。
「僕はもうウラヌスじゃない。戦いは全て終わったんだ」
「でも」
みちるはなお、続ける。これほどに譲らないみちるを、僕は久しぶりに見た。
「私にとって、はるかと同じくらい大切な存在よ。だって……かつて私が……ずっと求めていた人だから。」
真っ直ぐに僕を見つめ、みちるはそう言った。
その姿を見ていると、今度は先ほどよりもはっきりと、みちるにネプチューンの姿が重なった。みちるの服装が戦士姿に変わり、薄暗いベッドルームは突如として宇宙になる。
僕の胸に抱かれたみちるは、宇宙剣を握っていた。それは、僕の腹部に深々と刺さっている。よく見ると僕もいつの間にか戦士姿になっていた。腹部からは大量の鮮血が流れ、地面を赤く染めていく。
痛みは感じなかった。だけど、その光景は目の前にはっきりと映し出される。
おぞましい光景に、僕は目を見開き、叫びを上げそうになった。
――違う。これは夢だ。違う……!!
「みちるっっっ!!!」
僕はたまらず大声を上げた。みちるがビクッと身体を震わせる。
気がつくと、周囲は見慣れたベッドルームに戻っていた。服装も元に戻り、宇宙剣もなければ血も流れていない。
僕は先ほどのみちると同じくらいじっとりと汗をかき、呼吸が乱れていた。
「はるか……?」
先ほどとは立場が逆転し、今度はみちるが不安そうな目で僕を見上げている。
「みちる……」
焦点が合わない目でみちるを見ていた。自分の吐息が震えながら吐き出されるのがわかった。
――落ち着け、落ち着くんだ。
僕は心の中で呟く。そしてみちる身体を強く抱き、呟いた。
「ウラヌスじゃなくて、僕を見て」