はるかに対しての思いを、より一層強く意識するようになった出来事がある。
喫茶店でうさぎとその友人が、ファーストキスの話をしていた日。居合わせて会話を聞いていた私は、なんて可愛い願望だろうと思った。そして、話を聞きながら、私自身もその願望に憧れを抱いていることに気がついた。
私は彼女たちよりは少し大人ぶった態度で、世界で初めてのキスの話や、十五世紀のイタリアの話など話してみせたけれど、内心、はるかがこの話をしながらどう思っているのか、気になってしかたがなかった。「ファーストキスを大切にしたい」などと言って、自分の”初めて”がまだ残っているのだと、仄めかすことまでしてしまった。
けれどその時、はるかが考えていたのは使命のことだけで。喫茶店を出てすぐに、私はそれを思い知らされた。
それは当然のことで、むしろその態度は望ましい。安易に二人の距離を近づけるような行為をされたら、自分も困ることになる。
それなのに、私は心の中であからさまに落胆してしまった。何を期待していたのだろう、と自分が恥ずかしくなった。慌てて表情を引き締めて、使命の話に頭を切り替えた。
その数日後。
ひょんなことから私たちはまた、ファーストキスの話をしていた。無限学園の調査のために借りた私の部屋で、二人きりの時に。前回のターゲットの傾向から、次のターゲットの話をしたのがきっかけだった。
「ファーストキスへの憧れ。みちるにもそういうところ、あるんだな」
不意打ちで戻った話題に、どきりとする。件の発言をした時には、あれほどはるかを意識して発した言葉だったのに、今になって蒸し返されると何の心の準備もできておらず、動揺してしまった。はるかがテーブルに肘を付き、流すような視線でこちらを見ていたのが色っぽく、心臓の鼓動に拍車を掛けていた。
「キス……してみる?」
目を細めて尋ねるはるかは、いたずらっぽく笑っているようにも、こちらを弄んでいるようにも、こちらの態度を図ろうとしているようにも見えた。どう思っているのか、真意はわからない。私は心がどうしようもなく波立つのを感じた。頭が真っ白になって、平静を装うのに必死だった。
二人の間にしばし訪れた静寂は、一瞬にも、永遠にも感じられた。頭にじーんと痺れを感じて、ようやく私はぎこちなく微笑んだ。否、きちんと微笑んでいられたかどうかはわからない。
そっと立ち上がり、身体をはるかに近づける。前髪の隙間から出ている額に、触れるか触れないか、ぎりぎりのキスをした。
「額のキスは友情……でしょう?」
きょとんとした表情をするはるかに、そう、言ってみせる。自分の声が落ち着いていることを確認して、安心した。はるかは額に手を当て、戸惑ったような表情を浮かべてる。
「はるかが教えてくれたじゃない」
余裕たっぷり……に聞こえるように言ってから、目を伏せて、目の前のティーカップを手にした。
「なんだよ、それ」
ふてくされたような声がしたけれど、視線は上げられなかった。自分がずるくて、はるかの瞳を正面から見つめることができなかった。心臓の鼓動を抑えたくて、ティーカップに入っている紅茶に意識を集中したけれど、全く味が感じられなかった。
そう。私はずっとずっとはるかを好きでいて、はるかを試すようなことをしながら、いざはるかが近づいてくると逃げてしまう。
卑怯だ。それはわかっていた。
本当は、すごく嬉しかったのに。
だけど私は、はるかと結ばれてはいけない。
使命があるから――それはずっと自分の心に言い聞かせてきたこと。
あの日から、かもしれない。私たちの距離感が、少しずつずれ始めたのは。いいえ、もっと前だったかもしれないし、後だったかもしれない。
いずれにしても私は、”リアルすぎる恋人ごっこ”の感覚が、どんどん麻痺していくのを感じていた。
恋人公園で行われた愛情度コンテストもそう。私たちは恋人でないのに恋人を装って参加し、危うく優勝してしまうところだった。調査のためにあの会場にいればよかっただけなのに。暴走してしまいそうな私たちの”遊び”を止めたくて、辞退を提案したのは私の方だった。
「いいじゃないか、適当に流しておけば。下手に降りたら目立つんじゃないか?」
「優勝して目立つよりはよくてよ。それに……本物のカップルに失礼だわ」
そうはるかに言った時に、自分に対して少し安心していた。私たちは本物のカップルではない、という事実をきちんと口にすることで、自分は使命のことを忘れていないと自覚できたし、はるかに対して誤って好意を曝け出すこともなくその場をしのぐことができたと思えたから。
これは恋人ごっこなのよ。私たちは本物の恋人になる必要がないのよ――。
そう、はるかに対しても自分に対しても、牽制していたのかもしれない。
けれど、動き始めた関係はもう、元には戻らない。
私たちの共通の友人がターゲットとなり、その心を守ったあの日。私ははるかに言われた。
「君に会えてよかった」
風の音、エンジンの音、いろいろな音に紛れていたけれど、確かにはっきりとそう言われた。はるかの声は雑音の中でも、しっかりと私の耳に響く。
「今夜は帰さないぜ」
そう言われた瞬間に、私の周りの音が消えた。風の音もエンジンの音も、全て元きた道に置いていかれたまま、聞こえなくなった。代わりに、跳ね上がる心臓の音が、身体の内側から耳にぶつかってきた。
はるかが運転中で、言われたのが夕陽に染まる橋の上で、そして絶妙に冗談とも取れる口調で良かったと、心からそう思った。そうでなければ私は、はるかの顔をまともに見ることはできなかったと思うし、頬は彼女には誤魔化せないほどに熱かったし、冗談として受け流すような返事をすることはできなかっただろう。
そして私ははるかのその言葉が、まさか現実のものになるとは、思ってもみなかったのだ。