高校生になってから、約二ヶ月が過ぎた。
当初私は、卒業した中学校に付属する高校にそのまま進学する予定で、実際入学してしばらくはそちらの高校に通っていた。しかし、最近度々起きる不可解な事件が無限学園に関わっていることがわかったため、はるかと共に調査の一貫として編入することになった。真新しい制服は、袖を通してからわずか一ヶ月と少しでお役御免となってしまったのだ。
無限学園のすぐそばには海王家が持つマンションがあったので、これ幸いと、引っ越しも決めてしまった。海王家が持つマンションの多くには、上層階に自室と同様の感覚で使える部屋がいくつか与えられていた。その一つが今回のマンションである。今まで必要性がなかったから使わなかったが、無限学園の編入と同時にそちらの部屋を使うと言った私を、海王家の人間は誰も疑問視しなかった。
生活に必要なものはだいたいマンションに揃っているので、それ以外には身の回りの生活用品や学校で使う物を少し持っていけば事足りるはずだ。今日はヴァイオリンのお稽古もそこそこに新居に運ぶ荷物を整理していたが、あまり時間がかからないうちに終わってしまいそうだった。
荷物の準備をしながらふと、衣装ラックに掛けられた高校の制服にちらりと目をやって、元に戻す。それだけで、心臓の音がどきりと鳴り、顔が火照った。
――この制服は、もう使わないわね。
そう思ってから、今度は視線が自然とベッドに移る。整えられたまっさらなシーツは、夜になってから私を受け入れるのを静かにそこで待っていた。
数週間前。私は自室を訪れたはるかに、秘密を共有された。それからすぐ、私達は身体の関係を持った。
正直なところ、とても緊張していたし、無我夢中であまり覚えていなかった。行為の半分以上を緊張と違和感が占めていて、あとから振り返ってあれが良かったかどうかなどわからなかった。自分以外の人に肌に触れられるという緊張、普段は絶対に発せられないような声、自分が自分でなくなる瞬間。ふと思い出すといたたまれないくらいに恥ずかしくなってしまうため、しばらくの間はあの出来事を考えないようにするのに必死だった。
でも、こうやって部屋に一人でいて制服を目にすると、つい、この制服を脱がされた瞬間を思い出してしまう。
そしてその中で思い出されるのは、苦悩するはるかの顔。
彼女は――今はそう表現して良いのかどうかも少し迷っているが――、自分のことをどちらでもあるし、どちらでもないと言った。不完全であるとも言っていた。
その時のはるかの表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない。普段外では堂々としていて一切の弱さも見せないはるかが、急に弱々しく儚い生物になったかのようだった。それは私が見る初めてのはるかだった。
はるかを見つめていて、気づいたら私は、涙を流していた。どうしてなのかはわからない。ただ、はるかの表情を見ていたらあまりにも……理不尽だ、と感じた。
ただでさえ、私達は戦士の十字架を背負っている。避けようもない運命を一つ、すでに持って生きている。
そのはるかに、他にも背負っているものがあったこと。そしてそれは、私が気持ちを共有できる範疇にはないこと。にも関わらず、私は彼女に戦士として生きる道を選ばせてしまったこと。そのことに気づいて愕然とするのと同時に、はるかが戦士の道を選んでくれたことをどこか喜ばしく思っていた自分に腹が立った。
もっともこれらの事実は、あの日はるかと別れてから一連の出来事を思い返し、ゆっくりと気がついた感情だ。
はるかの告白を受け入れた瞬間の私は、そこまで深くは考えていなかった。たぶんもっと単純だった。
不完全。それでも良かった。私ははるかにそばにいてほしくて、こちらを見てほしかった。はるかははるか以外の何者でもなく、それがどちらであるかなど、どうでも良かった。――いや、どうでもいいなどと言うのは虫が良すぎるかもしれない。だって少し前まで私は、女性である(と思っていた)はるかのことを好きになる自分はおかしいのではないか、と思っていたのだから。
ただ、虫が良いと思われてもいい。実際にあの瞬間、私はそんなことはどうでもよくなったのだ。私が好きで焦がれていたはるかが、自分に気持ちを向けてくれた。自分に秘密を共有してくれた。それだけで胸がいっぱいになった。だからこちらを向いてほしくて……気がついたら、はるかに手を伸ばしていた。無我夢中で、はるかに自分の気持ちを伝えてしまった。
一連の出来事を思い返して胸を詰まらせた後で、私の心は暗く、憂鬱になる。
何故ならあの日以降、はるかは再び私の身体に触れることがないばかりか、あの日の話題や気持ちに触れることすらもないからだ。ただ何事もなく日常生活を送り、時々訪れる敵との戦いをこなし、次回のターゲットについて話し合う。それだけだ。
もちろん、私達が出会って行動を共にするようになった真の目的は使命を果たすことである。決して、浮ついた気持ちで交際をすることが目的ではない。
けれど、一方向だと思っていた気持ちが双方向であるとわかったにも関わらず、関係性は何も変わらない。そればかりか、高校生になったはるかは少しプレイボーイになった気さえする。私が気づいていることを知りながら、だけど私がはっきりと注意しないのを良いことに、他の女の子に浮ついた台詞で声をかけたり、甘い視線を送ったりしている。
はるかに少し怒りたい気持ちもある。だけどそれ以上に、怖い。
もしかしたら私はあの日、はるかを失望させてしまったのかもしれない……。
私はもう一度制服に視線を向け、そっと手を伸ばした。私の身体に馴染む前にその役目を終えてしまった制服は、力なくハンガーにかけられ、肩を落としているかのようだった。
あの時はるかはとても思い悩むような表情をしていた。なのに、私は自分が嬉しい気持ちでいっぱいになってしまい、自分の気持ちを押し付けてしまったかもしれない。さらには、そのまま身体を許してしまって……もちろん、それは相手がはるかだからであって、誰にでも簡単に許すことなどないのだけれど。でも、はるかにどう見えていたのかは、わからない。
それに……はるかに抱かれる過程で、私はつい、はるかのことを考えて自分で身体に触れていたなどという、とんでもないことを口走ってしまった。そのことを思い出すと、ことさら恥ずかしさでどうしようもなくなり、消えてしまいたくなる。はるかは私を否定することはなかったけれど、もしかしたら心のなかでは、私を軽蔑していたのではないだろうか。
あの日以降も私は、何度か自分の身体に触れてみた。けれど、あの日はるかに触れられた感覚とはまるで違っていた。
――あれははるかの手だったから。はるかが目の前にいたから――。
私はあの瞬間を思い出し、そして焦がれ、また一人で身体を熱くしてしまうのだった。
あの日の出来事を頭の中で何度も巡らせてしまい、私はため息をついた。このままだと、延々とはるかのことを考え続けてしまう。私は自分の心にかかる雲を追い払うかのように、必要なくなった制服をクローゼットに押し込んだ。