柔らかな風が吹き抜けたのを感じて、僕は目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのかを忘れかけていた。目を瞬かせて見覚えのない天井をぼーっと見つめたあと、すぐに昨日の出来事を思い出す。
「みちる」
身体を起こし周囲を確認したが、誰もいなかった。部屋をぐるりと見回してみる。
ベッドルームの窓が少しだけ開けられており、風はそこから入ってきていた。カーテンが柔らかく靡き、僕の足の先の方で揺れている。窓の隙間から、日差しを受けてキラキラと輝く海が見えた。
まだ夢の中にいるのか……そう思えるほどにぼんやりとその光景を見つめてしまう。思考は止まっているのに気分はとても晴れやかで、よく寝たあとのスッキリした感覚も同居している。不思議な気分だ。
そのまま散々海を眺めてから、僕は立ち上がった。昨日脱ぎ捨てたシャツを軽く羽織り、リビングに向かう。
みちるの姿はなかった。狭い別荘の中で、物音一つしない。ただ、遠くから微かに波のさざめく音と、風が抜ける音がするだけだった。
みちるがいない。だけど僕は、なぜか焦りを感じなかった。
ダイニングテーブルの上に、みちるの深水鏡が置かれている。みちるのタリスマンであり、戦いが終わった今も、肌身離さずに持っている分身のような存在。
――これがここにあるということは、みちるはここに戻ってくる。
なんとなくだが、そう確信していた。昨夜、夢の中に引き込まれる直前に聞こえたみちるの言葉も気になっていた。
「また、明日の夜に」
なぜそう言われたのかはわからない。そもそもあれはすでに夢の中の出来事だったのかもしれない。
しかし、いずれにしてもみちるがそう言ったのであれば何か理由がある。だから僕はそれを信じて待つしかない。
ひとまず僕は昨日置き去りにした車を取りに行き、周辺で食事を摂ることにした。そう言えば昨日は移動ばかりでろくに食事を摂らなかった上、夕飯も食べないまま寝てしまった。いざ歩き始めるとお腹から音が鳴るので、僕は思わず苦笑する。
みちるが本当に夜に戻ってくるのであれば、時間はたっぷりある。食事のついでに周辺を散歩して、それも終わると車に載せてきた本を読んで過ごした。視界が開けたみちるの別荘のバルコニーは、ただただのんびりと読書をするにも、時々手を止めてなんとなく景色を眺めるにも、最高の環境だった。
僕は午後のほとんどの時間をバルコニーで過ごした。陽が傾いてきたころにようやく、飲み物でも飲もうかと立ち、リビングに戻った時だ。ふと、そこに置かれていたピアノが目に止まる。
きちんと手入れがされたピアノだ。艶々として美しい曲線が、窓からの光を反射している。近づいてよく見ると、先ほどまでは気づかなかったが、ピアノの傍には小さなサイドテーブルがあり、楽譜が置かれていた。手にとってパラパラと眺めてみる。
――もしかして、これは。
僕は興味が湧いて、ピアノの前に座った。ピアノに触れるのは久しぶりだったが、幼い頃から散々習わされてきたから感覚は染み付いている。僕は迷いなく指を滑らせた。
最初の数小節ですぐに確信する。
――やっぱり。
それは、一昨日車で聴いたカセットテープの曲を同じであり、昨日バルコニーでみちるが弾いていた曲でもあった。みちるが作曲したのだろうか。
ゆったりとしていて、優雅で、みちるの雰囲気にぴったりの曲だと思う。しかしなぜだろう、どこかもの悲しい。
それはまるで一人孤独に耐えながら、希望の光を探すような――。
決して長いとは言えない曲だったが、弾き終えると感情を大きく揺さぶられるような思いがした。
――みちるは、一人でこの曲を……。
言葉では表現できないさまざまな思いが浮かんだ。思わずため息を漏らし、額を抑える。
僕はそこからしばらく動けず、じっとしていた。
「はるか」
みちるに名を呼ばれ、僕ははっとして目を開けた。
「風邪、ひくわよ」
みちるは、まるで普段と変わらないような口ぶりで僕に話しかける。
「みちる」
僕は顔を上げて彼女を見た。
昨夜と全く変わらない姿で、みちるはそこにいた。僕にゆっくりと近づいてくる。
「待たせてしまったわね」
僕はその言葉には答えず、頬を緩めて返した。手を差し出すと、みちるは僕の手を握ってくれる。柔らかく優しい温もりが伝わってきた。
「信じてたよ」
僕はみちるの瞳を見て、そう呟いた。みちるの蒼い瞳が震えるようにさっと動いた。そして顔が歪む。
まるで、泣くのを堪えているかのように。
「……ごめんなさい」
みちるは俯いて小さく呟いた。僕の手をそっと離し、バルコニーに出る。さっき手に触れた時には気づかなかったのだが、僕と繋いでいなかったもう片方の手に、深水鏡が握られていた。
バルコニーからは、先程よりだいぶ海に近づいた太陽が見えた。昨日と同じく、今日も夕陽が綺麗に見られるだろう。みちるはまだやや高いその日差しを浴びながら、深水鏡を見つめていた。
僕は声をかけられないまま、しばらくその後ろ姿を眺めていた。
やがて、みちるはゆっくりと僕を振り返った。
――美しいな。
今この状況でそう思うのが適切かはわからなかったけれど、真っ先に出てきたのはそんな感想だった。
美しい。美しいのに、なぜか今のみちるを見ていると、苦しい。切ない。
圧倒されて何も言えなかった。そのまま、僕はただ黙ってみちるのことを見つめ続けていた。
「ねえ、はるか」
やっと聞こえてきたのは、いつものみちるよりはやや低く、震えを伴った声。僕は心臓が一段高く鳴るのを感じた。みちるは一体、何を語ろうとしているのだろうか。
僕が片時も見逃すまいとみちるの表情を見つめていると、彼女は再び口を開いた。
「タリスマンがなんだったか、憶えている?」
その言葉を聞いて、僕は不意を突かれた思いでみちるの顔を見た。僕が昨日の早朝に夢の中で見た、あのみちるの台詞だ。
あの時みちるは、確かこう言っていた。
「タリスマンは、ピュアな心の結晶……だろ」
僕がゆっくりと確認するように言うのを聞いて、みちるが頷いた。そうね、と小さく呟く。その視線は再び、僕から深水鏡に移った。
「はるかは、タリスマンの意思を感じたことはある?」
「タリスマンの、意思?」
また予想もしなかった質問に、思わずみちるの言葉をそっくりと返した。
みちるの意図がよくわからなかった。なぜ今タリスマンの話なのか。みちるがいなくなったことと何か関係があるのか。
心臓が速く脈打ち続けているのを感じていた。この先の話を聞いてはいけない。なぜかそんな気がする。まるでそれは、開けてはいけない箱を開けるような……。だけど、聞かなければ真相には辿り着けない。
みちるはそんな僕の反応をゆっくり待つかのように、表情を変えずにじっとしていた。
なんと言おうか散々迷って、やっと僕は一言口にした。
「タリスマンに意思なんて、あるのか?」
明らかに動揺しているのがわかるであろう、やや上擦った声。みちるは頷く。
「私のタリスマンには、あるわ」
みちるは自らのタリスマン、深水鏡を僕に掲げて、見せた。
「私の深水鏡は、明確な意思を持っているの」
深く、凛とした美しい声で、みちるは僕にそう告げた。