シャワーを浴びて部屋に戻ると、広い部屋に、悲しげなピアノの音が響いていた。
――この曲は……リストの“ラ・カンパネッラ”ね。
多くの人が聞いたことがあるであろう、有名な曲。
繊細なピアノの音が、はるかの細い指から紡ぎ出される。
はるかとこの家で過ごすようになってから、ピアノを弾くことなど滅多になかった。珍しい。急にどうしたのだろう。
「……見てたなら声を掛けてくれればいいのに、みちる。」
ドアの陰からそっと見ていたら、はるかが気づいていたらしい。
もう少しはるかの演奏を聞いていたかったが、はるかは手を止めてしまった。
「……珍しいわね。ここでピアノ弾くなんて。」
私の言葉に、はるかは視線を鍵盤に落とし、顔を曇らせた。
「君が、あんなこと言うから……」
――私は、あなたの手が好きよ
先程、シャワーを浴びる前に、水着姿のままではるかの手を握り、言った言葉だ。
我ながらストレートな発言をしたものである。今更ながら恥ずかしさに襲われる。
「……久しぶりに、弾きたくなったんだ。」
はるかは鍵盤に置かれた自分の手を見つめながら言った。
それはまるで、穢れた手を浄化する行為かの如く。
あるいは、生きても良いと認められた自分の手を確かめるかの如く。
はるかはピアノを弾いていたのだ。
私はゆっくりとはるかに近づいた。
いつも迷いのないはるかの目が、少し曇っている。
――これから私たちは、死ぬかもしれない。
言い知れない不安がぞくぞくと足元から登ってくる。
恐らくはるかも同じ気持ちなのだろう。
覚悟は、決めていたつもりだったのに。
いざその時を前にすると、どうしようもなく不安で、寂しくて、切なくて、辛い。
それはこの世への未練ではない。言うまでもなく、はるかを失うこと、はるかのいない世界へ行くことへの恐怖心だ。
「だからって……こんなに悲しげな曲を選ばなくてもいいのに」
「“カンパネッラ”って、“鐘”だろ。
教会なら鐘があるかなと思ってさ。」
私たちがこれから死ぬかもしれない場所。
はるかはそれを示唆しながらピアノを弾いていた。
依然ピアノの前に座ったままのはるかにそっと近づき、そして肩に触れる。
その肩がいつもより不安げで小さく見えて、私は思わず後ろから身を寄せてしまっていた。
「……みちる……!!」
はるかは驚き、しかし私が首元に回した手に優しく触れた。
「いつになく積極的だな、今日は。」
「……ばかね。」
――私だって不安なのよ。あなただって、そうでしょう?
互いの鼓動も不安も焦燥も、全て伝わってくる距離。
そして二人の感情が溶け合い、澱んだ空気となり漂う。
「みちる……!」
はるかにぐっと手を握られ、顔を寄せられた。
熱い吐息がかかったかと思うと、即座に私の唇は彼女に塞がれる。
「ぁ……っ」
咄嗟のことだったのでうまく息が継げず、口の隙間から息が漏れ出た。
はるかの舌が私の歯列を割り、内側をなぞる。
私の舌を探し出し、絡めるようになぞる。
確かめ合うように、何度も。
「……はぁっ」
永遠にも感じられるような長い口付け。
力が抜けて支えを探した私の手が、ピアノに触れた。
……ポーン
淋しげな音が一音響き、それを合図にするかの如く、私たちは離れた。
こんなに熱いキスをはるかか受けたことがあっただろうか。
今や不安や緊張に勝る心臓の鼓動が、私の中心を強く圧迫する。
「……積極的なのはどちらかしら?」
平静を装ってそう返すのが精一杯。
「誘ったのはそっちだろ。」
そう言ったはるかの顔は、いつものような澄ました顔に戻っていた。
「……でも、ありがとう。もう大丈夫だから。」
はるかはどこか吹っ切れたような顔をしていた。
覚悟を決めたらしい。
――もう、迷ってはいられないわね。
「……行きましょうか。」
私ははるかに手を差し出した。
はるかはその手を取り、立ち上がる。
互いの手に、いつものリップロッドを握りしめ。
頭の中ではまだ、はるかのピアノが音を奏で続けていた。