油絵具の匂い。壁に立てかけるように置かれた数々のキャンバス。自宅の庭に建てられた小さな離れの部屋を、みちるは「アトリエ」と言った。
はるかが初めて踏み入れたそこは、静寂な、しかしどこか温かく柔らかな空気に包まれていた。
「今度の日曜日に、時間をくれないかしら」
みちるがはるかにそう言ったのは、高校入学を控えた春休みのことだった。久しぶりに風も海も騒いでいる気配を感じない、穏やかな昼下がり。いつ敵が出てもすぐに落ち合えるように、と、互いに予定がない時間はなんとなく一緒に過ごすようにし始めた……そんな矢先の出来事だ。
それぞれ通っていた中学校を卒業して、少し長めの春休みに入っていたので、二人はなんとなく街中を歩いたり、公園に行ったり、ちょっとカフェでお茶したり、とその日その日の気分に合わせて過ごしていた。
その日はみちるが画材を買いたいというので、買い物のために商店街を少しうろついてから、公園のベンチで一休みしていたところだった。
絵の具や筆などが入った紙袋を横に置き、二人は噴水を眺めていた。
「いいけど。なんで?」
そう尋ねたはるかに、みちるはにっこりと微笑んだ。
「絵のモデルになってほしいの」
その言葉に、はるかはえっ、と声を上げて顔を顰める。それから、頬を掻いて目を逸らした。
「それは……前に断っただろ」
はるかの様子にも構わず、みちるは珍しく食い下がる。
「あれは、初対面だったからでしょう。そろそろいいんじゃないかなと思って……ね?」
みちるの言葉に、はるかは逸らしていた視線を元に戻す。みちるはやや上目遣いではるかを覗き込む形となり見つめていた。ベンチには十センチほどの隙間を空けて座っていたのだが、並んで歩いている時やカフェで対面している時に比べると、はるかからは随分とみちるの顔が近く見える。
思わぬ形でみちると視線が直にぶつかり、はるかは自分の顔が熱くなるのを感じた。
みちるはそこで見計らったかのようにもう一言、付け加える。
「はるか、きっといいモデルになるわ」
ね? とみちるがもうひと押しする。一歩も引く様子がない姿勢に、はるかは少々たじろいだ。
一見すると大人しく物言わぬお嬢様に見えるみちるだが、出会ってからしばらく一緒に時間を過ごし戦士として戦う中で触れ合ううちに、意思が強く言い出したら簡単に引かないタイプであることを徐々に実感するようになっていたところだ。
「……ちょっとだけ、なら」
気づいたらみちるの勢いに押され、はるかは頷いていたのだった。
はるかは今まで入ったことのない世界に足を踏み入れたような気分を感じていた。様々な色が目に飛び込んでくるが、全体的に青や水色などの寒色か、グレーや黒と言った無彩色が目につく。
中でも、ひときわ大きなキャンバスに描かれた絵に圧倒された。海……だろうか。暗く深い色の水流が大きく渦を巻き、周りにあるものを巻き込んで沈んでいく様子だ。人間や車、建物などが飲み込まれるのが小さく描かれていた。
以前、船上コンサートに招かれて見た絵と、どこか通じる雰囲気を醸し出していた。
もしみちるの正体も、みちるが見る夢のこともを知らずにこの絵を見ていたら、中学生でこれほど恐ろしい絵を描く彼女の精神を心配したかもしれない。
それほどまでに、リアリティと恐怖はそこに確実に描き表されており、ふとした瞬間に音を立てて動き出す実感があった。
はるかがその絵に釘付けになっていると、ガタリと音がした。そちらに顔を向けて見ると、みちるが部屋の奥に置かれた椅子の傍で手招きしている。部屋の中は物は多いが整理整頓されていて、みちるが描くための場所とはるかが座る場所までの道はきちんと確保されていた。はるかはそこを通ってみちるの元へ行く。
「いつもここで描いてるの?」
「ええ」
みちるは窓際に移動し、カーテンを開けた。普段日光が入らないように厚手のカーテンで覆われているアトリエは、春の陽光を浴びて一気に空気を変える。はるかの目に映っていた数々の絵も、先程とは少し印象を変えて見えた。
「ここに座って、こちらを見ていて」
みちるははるかを座らせた上で、みちるが座る椅子から見て左を向くように言った。はるかは窓の外を向く形で座った。
「なんか、恥ずかしいな」
はるかは椅子に座り、みちるが歩いて行くのを見ながら呟いた。
目的を聞いてここに来たとは言え、改まってモデルとしてそこに座り、じっくり見られると思うと、少し気恥ずかしいものだ。
みちるはスケッチブックを開きながら微笑んだ。
「あら。はるか、前に陸上競技の特集で雑誌に取り上げられたりしていたじゃない。同じよ」
みちるの言葉に、はるかは首を振る。
「あれとは違うよ。写真は一瞬で撮り終わるし、取材中にずっと僕の方を見ている人はいないから。それに……」
「それに?」
みちるの返答に、はるかはその先を言おうとしてみちるをチラリと見ながら口を開きかけたのだが、すぐに閉じた。
「なんでもない」
そう言ってみちるに指示された窓の方向を向いて座り直す。
みちるははるかに続きを促すことはせず、スケッチブックを抱えてデッサンを始めた。スケッチブックとはるかを見比べ、目を細めたり少し引いて見たり、首を傾げてみながら何度か鉛筆を走らせる。
しばらく、そんな時間が続いた。
みちるのアトリエは、穏やかで静かな空間だった。窓から差し込む春の日差しは、どことなくはるかの眠気を誘う。はるかは姿勢を保ったまま目を閉じた。瞼の裏には、先ほど目に焼きつくほどに見た、海に浮かぶ渦の絵が浮かんでいる。
やがて、みちるがうーん、と悩ましげな声を上げたのをきっかけに、はるかは目を開けた。寝てしまっていたわけではないが、長い時間目を閉じていたような気がした。しかし、実際はまだ十分程度しか経っていない。
はるかは少しだけ首を動かして、どうしたの、と尋ねた。
「うーん……ちょっと」
みちるははるかとキャンバスに交互に視線を走らせ、鉛筆の頭を顎のあたりにトントンと当ててながら考えていた。
それから、言った。
「ねえ。ちょっと脱いでくださらない?」
「……は?」
突然のみちるの申し出に、はるかは咄嗟にそう返した。それから一拍置いて、頬を染める。
「ぬ、脱ぐ?」
「ええ。だめ?」
「だめに決まってるだろ」
はるかは乱暴に返して、そっぽを向いた。みちるの突拍子もない提案に内心ドキドキしていたが、みちるは何事もなかったかのように続ける。
「だってはるか。走っている時なんかはもっと薄着でしょう」
「そりゃそうだけど。今は走ってる姿を描きたいわけじゃないだろ」
はるかの問いに、みちるはまた考え込む。ぶつぶつと呟きながら、またキャンバスとはるかを交互に睨んだ。
「そうね……そうなんだけど……」
ひとしきり考え込んでから、みちるは顔を上げた。
「もう少し身体のラインとか、動きも見たいの」
恥ずかしげもなく大真面目な顔で言うみちるに、はるかは思わず赤面した。
「だったら、それこそ最初からアトリエじゃなくて外で走ってる時に描いてくれればいいのに
「走ってる姿は、もう描いているのよ」
みちるははるかの方に寄って行き、スケッチブックをパラパラとめくって見せた。そこには下書きのようなラフな絵がいくつか描いてある。角度はそれぞれ異なるものの、つなぎ合わせたら動き始めるのではないかという躍動感のある絵だ。端の方に合わせて書いてある日付を見るに、はるかがみちると出会ってそれほど経っていない頃。まだ陸上競技に打ち込んでいた時期である。
「こんなに」
数ページに渡って描かれた絵に、はるかは感心した。なんだ、モデルを依頼する前から勝手に描いているじゃないか、とは思ったが、格好良く描いてもらうこと自体に悪い気はしない。よくよく思い返してみれば、みちるははるかが陸上競技に打ち込んでいる間は、足繁く陸上競技場まで応援に来てくれていたものだった。きっとその時に描いていたものなのだろう。
「これだけ描いてるなら、十分じゃないのか」
はるかの言葉に、みちるがいいえ、と首を振った。
「この時は遠くからだったし……まだ足りないのよ」
みちるはスケッチブックに目を落とし、真剣に考え込んでいた。はるかはそこに、普段のみちるではなく芸術家としての海王みちるを垣間見る。
どれほど描いて表現しても、まだ自分の求める姿に行き着くことができない悩ましさ。その瞳には何が映っているのか……はるか自身、少し興味があった。
はるかはふっと軽く息をつき、それから着ていた長袖シャツを脱いで、タンクトップ姿になる。はるかの引き締まった腕は、アトリエ内の春らしくひんやりとした空気に包まれた。しかし、窓から入ってくる光を浴びているとそれほど寒さは気にならない。
みちるははるかの動きにはっと顔を上げた。はるかは少しだけ頬を染め、着ていたシャツをぽいと床に放り投げる。
「ここまでなら」
照れ隠しにみちるに背中を向けてそう言い、はるかは自分の椅子に戻る。はるかからは見えなかったが、みちるは一瞬驚いたような表情をしてからスケッチブックで口元隠すように覆った。
それからすぐ、顔を綻ばせて言った。
「ありがとう」
あまりかしこまらず楽な姿勢でいいから、と言われ、はるかは椅子に凭れて足を組んで座りながら、また窓の外を眺めていた。
窓から見える海王家の庭は、冬枯れしていた芝生に少しずつ緑が戻り始め、木々にも青い葉が目立ってきているところだった。
四季を感じられるであろうこのアトリエで、みちるはそれらの景色には目もくれず、一人、終末の絵を描いていた――その事実を思い出し、はるかの胸が少しだけ、痛んだ。
「ねえ」
はるかが小さな声でみちるを呼んだ。みちるは軽く顔を上げる。返事はなかったが、はるかは視界の端にみちるの反応を捉え、話を続ける。
「みちるは、なんで絵を描くの?」
その問いに、みちるははたと手を止めた。視線をスケッチブックに戻す。
「そうね……」
みちるはしばらくスケッチブックを眺めたあと、顔を右に――先程はるかが見つめていた終末の絵がある方向に――向けた。
「描かなきゃ、って思うの」
そう呟いたあと、今度はまたはるかの方を見る。はるかはそれに気づいてみちるの方を向く。みちるはどこか張り詰めていて切羽詰まっているようにも見える表情だった。
「今の私にしか見えていないものを。形にして残さなきゃって」
その表情に、はるかは胸の内から何か湧き上がるのを感じていたが、それがどういう気持ちなのか、自分でもよくわからなかった。何か口にしようと思ったが適切な表現が出てこず、みちるの言葉をそのまま繰り返すように呟く。
「残す……か」
みちるは軽く微笑んだ。
「はるかは? なぜ走るの?」
みちるに逆に問われ、はるかは考えてみる。一瞬の間のあと、みちるに比べると随分すんなりと答えた。
「走っている間は風になれるから」
「風……じゃあなぜ風になりたいの?」
重ねてみちるは問う。先程までの張り詰めた表情を緩ませ、まるで新しい楽しみを見つけたかのような表情に変化していた。
今度ははるかがうーん、と考える番だった。
「そう、だな」
窓の方を見ながら腕を組み、はるかは考えていた。それから、ぽそりと呟く。
「風になっている間は、何も考えなくて済むからな……」
はるかの視線はどこか遠く、まるで窓の外を吹き抜ける春の風を見ているかのように、先を見ていた。
みちるはその横顔を、目を細めて優しい視線で眺めていた。
「嫌なこと、とか?」
「ああ」
明言はしなかったが、何か近いものが目に映っている……二人は互いの視線の先に、そんな雰囲気を感じ取っていた。
あとさ、とはるかはもう一つ付け加えるように言った。
「人じゃない時間があるってのも、案外悪くないぜ」
はるかが口角を上げ、ニヤリと笑いながら言うのを聞いて、みちるはくすっと笑った。
「面白いことを言うのね」
二人はそのまま、しばらく見つめあっていた。
絵を描き、表現することの意味。
走り、風になることの意味。
互いが自分の身を持って示す先に、繋がる想いと覚悟を感じて。
穏やかな表情ながらも覚悟を秘めた視線が、空中でぶつかった。
「決めたわ。どんな絵を描くか」
しばらく見つめあった後、みちるは口を開いた。
「へえ。どんな絵?」
はるかの問いに、みちるはややいたずらっぽい笑みで返した。
「内緒」
それから数週間後、高校入学直後に開かれたみちるの個展で、新しい絵が公開された。
淡い色の布を纏った美少年が、光を浴びた海に向かって飛び立つ姿。
題名は、「風になった少年」
中学生離れした画力で滅びの世界を描いていた海王みちるが、高校生になって一転して希望に満ちた絵を描いたことで、界隈ではしばらく話題になった。もちろん、モデルとなった「少年」についても、多数の憶測や噂が挙がった。
それらの詮索を、みちるは曖昧に交わし続けた。
夕方の、アトリエ。みちるは窓際に佇んでいた。薄暗い部屋で、カーテンから僅かに覗く夕陽を頼りに、スケッチブックを開ける。そこには、はるかが空に向かって飛び立つような姿勢で描かれていた。
みちるはその絵を愛おしげに眺めた。
――私が、形にしたかったもの……。
宝物をしまうかのような手つきで、みちるはそっと、スケッチブックを閉じた。