今日は一年に一度、君が生まれてきたことを祝う日だ。
そして同時にそれは、僕たちが惹かれあい、共に生きる理由を考える日でもある。
僕たちが互いの誕生日を祝うようになって、もう何度目になっただろう。
「何か欲しいものはある?」
「はるかが傍にいてくれれば、それで十分よ」
「どこか行きたい場所は?」
「はるかが連れて行ってくれる場所なら、どこでも」
毎度繰り返されるやりとり。普段の生活の中ではたまにリクエストがあるものの、みちるの誕生日だけは何故かいつも僕におまかせだ。
何を贈っても、どこに連れて行っても喜んでくれるみちるは、毎年僕を悩ませる。もちろん、それはこの上なく楽しくて幸せな悩みでもあるけれど。
今年ももちろん、僕は張り切ってデートコースを考えた。ここ何年かは少し遠くまで足を伸ばしてドライブすることが多かったから、今年は近場をいくつか巡るのはどうだろうか。
そうやってここ何年かのデートの振り返りをしていたら、ふと、戦士としての使命が終わってから初めて二人で迎えたみちるの誕生日の出来事を思い出した。数年前のことだ。
その日は都内のレストランでディナーの予約をしていた。日中はドライブをして、横浜でみちるのプレゼント選び。それから都内に戻り一度車を置いて、夕方から散歩がてら徒歩でレストランに向かった。
夕方の公園。多くのカップルが、これから夜のデートを楽しむつもりなのだろうか、そこここに歩いている。僕たちもその一組だ。
随分前にみちるがおだんごに向けて「休日の公園にはデートのカップルか鳩しかいない」などと言ってみせていたが、なるほど、言い得て妙だ。確かに今僕から見えるこの視界の中には、カップルと鳩以外には誰もいないように見える。
僕はあの時のきょとんとしたおだんごの顔を思い出した。
「あら、楽しそうね。何を思い出したのかしら」
「誰かさんの名言を、ね」
僕の表情の変化に気づいたと思われるみちるの問いに、ウインクで返してみせる。みちるはそれ以上追求せず、含みのある笑みを返した。
時間まではまだ少しあったから、なんとなくベンチに座って公園を眺めてみることにした。ドライブしている時と違って景色が目まぐるしく移り変わることはないけれど、流れる雲、風、そして公園を行き来する人など、意外と変化は多く、みちると一緒にそれらを眺めているだけでも退屈はしないものだ。
自然と寄り添う形で横に座るみちるの肩を抱いて、しばらくそこに座っていた。
「もうこんなに花が咲き始める時期なのね」
みちるが呟いた。まだ肌寒い時期にもかかわらず、目の前に広がる花壇をには色とりどりの花が丁寧に植えられ、美しく咲き誇っている。
「本当だな。これからもっといろんな花が咲くんだろうな」
「そっちじゃなくて。ほら」
みちるにつつかれて、僕はみちるの視線の先を確認した。てっきり目の前の花壇を見ているものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。みちるに促されて、僕は足元に目を落とす。
僕たちの座るベンチの足元は、柔らかい芝生に覆われていた。まだ茶色く枯れた芝からは、少しずつ緑色の新しい芝が生え始めている。
そしてその芝生の隙間から、白くて小さな花がにょきりと顔を出していた。雑草の類であるその花は、まるで人に踏まれにくい場所を自ら選んだかのように、ベンチの足に沿って茎を伸ばしている。
まさかみちるがこんな小さな花を見ていたとは思わなかった。そこに花があったこと、そしてみちるの着目点に二重の驚きを感じる。
「生命力の強さを感じるわね」
「ああ。そうだな」
生存本能、というのだろう。この植物たちは、誰に教えられたわけでもなく、自分の種を残すために自然と花を開き根を張る。そして他の生物の力や風の力で自らの花粉や種を運び、また次の生命に繋ぐのだ。
視線を上げて斜向かいのベンチに目を止めると、そこには男女のカップルが人目を憚らずに見つめ合い、今にもキスし始めてしまいそうな状態で座っているのが見えた。
決して意識して目を向けたわけではないが、何故か今は妙にそちらが気になってしまう。
――野暮なことだとは十分わかっていたけれど、たまに考えずにはいられない。
植物が自分の種を残すことと同じように、ああやって男女のカップルが惹かれ合うのが本能的なことならば、僕達は何故―。
「他のカップルの情事を観察するなんて、趣味が悪くてよ」
みちるにからかうように囁かれ、僕はハッとして視線を戻した。さすがに凝視していたつもりは無いけれど、何処か上の空になっていたことは、みちるにはバレバレだったのだろう。
「あれだけ堂々とやってたら、見てくれと言われてるみたいなものだけどな」
「あら。人のこと言えるのかしら、はるかさん?」
みちるは僕の膝に手を置き、言った。潤んだ目と艶めく唇が僕を見上げる。思った以上に至近距離に感じたそれらの煌めきに、僕は自分自身の体温が少し上がったように感じた。
「不思議なもんだな」
斜向かいのカップルをもう一度ちらりと見てから、僕は深呼吸して目を閉じた。
人に見せつけるのが悪いとは思わないが、今ここで、わざわざ同調することでもない。
「何が?」
「人間の本能が……かな」
言わずもがな、身体的に女性である僕がいくら男性的な役割でみちると付き合い、身体を重ねようとも、そこに後世に繋がる新たな生命が生まれることはない。けれど、僕はみちるに惹かれて一緒にいる。いくら生物の本能に逆らっていることを頭で理解していても、だ。
その事については、みちるの将来のために身を引くべきではないか、とか、みちる自身が本当は思うところがあるのではないか、とか、いろいろと考えたことはあった。
ただ、どう悩んだところで、みちるに惹かれてしまうという事実だけは変えられない。心から、そして身体から、全てにおいて相性が良く導き合ってしまうのだから。
そうなると、もはや人間の本能とはなんなのだろう。どういった役割で僕の中に存在し、僕を動かしているのだろう。僕は何度も疑問に思ったものだ。
「何故僕らは一緒にいるんだろうな」
使命はとっくに終わったと言うのに。僕たちはタリスマンを探し出すという使命で繋がれた、一時的なパートナーのはず、だったのに。
何を今更、とみちるは思うかもしれない。使命が終わっても互いに離れるという選択をせず、一緒に暮らし続けることに、何の疑問も持たずにここまできた。
……いや。違う。何度も疑問には思ったが、この幸せを壊したくないから見ないふりをしてきた、と言うのが正しいのかもしれない。
そうやって避けてきた疑問を、何も今、みちるの誕生日ディナーを控えたこの時間、幸せなカップルと鳩以外が存在しないこの公園で解かなくても良いのではないか。
そう思ったが、もう遅い。僕の問いはすでに口から発せられ、みちるの元に届いていた。
みちるは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに真面目な顔になり、言った。
「一緒にいたいから……かしらね」
驚くほどシンプルでみちるらしい答えに、僕は思わず頬を緩めた。やめておけばいいのに、好奇心からさらに質問を重ねてしまう。
「それが生存本能に抗うことでも?」
傍目で見れば、恋人に愛を囁いているように見えるであろう僕が、実は人間の本能について問うている。自分でもおかしなものだなと思いながらも、みちるはどう答えるのか興味があり、その蒼い瞳を見つめながら答えを待っていた。
「そうね……」
答えを待つ僕に、みちるは表情を崩し、ふふっと小さな笑い声をあげる。
「生存本能には抗っているかもしれないけれど、自分の欲には素直に生きているわよ。私は」
みちるはあっけからんと答えてみせた。
そのシンプルな答えは、僕を喜ばせると同時に、一抹の不安を抱かせた。
一緒にいたいから一緒にいる。欲。
逆に言えば、僕たちを繋ぐのは欲だけだ。血の繋がりを持つこともできなければ、法律で守られる繋がりもない。ただの口約束だ。
もちろん、血の繋がりや法律は時にあまりに脆く、全く何の役にも立たないこともある。脆い繋がりに甘んじて心の繋がりが薄くなるくらいであれば、そんな繋がりはない方がマシで、口約束の方がよほど信頼できるだろう。
けれど、僕らが生きるこの世の中は、驚くほどその脆い繋がりを重視する。僕たちがいくら世の中の流れと生存本能に抗い、自分たちの気持ちを重視しようとも、それは変わらない。
皆、人の気持ちという目に見えない不安定なものよりも、目に見える形―戸籍とか血とか―が大事で、縋るのだ。
そう言った目に見える繋がりがない僕たちは、これから目には見えない不安定な「口約束」を守り続け、生きていく。
守る自信は。もちろん、ある。そこに対する不安はない。
でも、みちるは。みちるは僕と同じように、「口約束」を守り続けてくれるのだろうか。
みちるのことが信頼できないというわけではない。どちらかと言えばこの不安は、僕自身がみちるに約束を守ってもらえるだけのことができているのか、そちらに対する不安……のような気がする。
一通り考えを巡らせてから僕が口を開きかけると、みちるはまるでしっ、と言うように僕の唇に人差し指を当てて制する。
「なんだかよくわからないけど」
みちるは、僕が肩を抱く手をやんわりとずらし、足元の花に手を伸ばした。ごめんなさいね、と小さく謝ってから、その花を一輪、ぷちりと千切った。
「はるか、たまに余計なことを考えているんじゃなくて?」
みちるは千切った花を手に取り、僕に左手を出すよう促した。僕が黙って手を差し出すと、薬指にその花を結んでみせる。
「シロツメグサじゃないから、うまくいかないわね」
みちるが苦笑して手を離した。僕は指に巻かれたその花を見つめる。
それは小さな頃に摘んだ覚えがある、白くて小さな花とハート型の葉をたくさんつけた雑草だった。
「あなたに私のすべてを捧げます」
「え?」
みちるが発した言葉に、僕は思わず聞き返した。
「なずなの花言葉よ」
僕は左手の薬指に巻かれたなずなを眺めた。間近で見るとより花の小ささが際立つ。しかし、小さいながらも茎はしっかりしていて、決してか弱いだけの花でないことを物語っていた。
「私はずっと、あなたと一緒に生き続けるつもりよ」
白い花を見つめる背景に、みちるの笑顔が映った。迷いのないその瞳は、何時だって僕を正しい方向へ導いてくれる。
ぼんやりとそのなずなを眺めていると、目の前を小学生と思しき兄妹を連れた母親が通り過ぎた。何だ、この公園にはカップル以外の人もいるじゃないか、と、僕はなんとなくそちらにチラリと目をやった。
妹の方がじゃれつくように母の腕に絡みつき、楽しげに話している。
「今日、ママの誕生日だからケーキ買って帰ろうよ」
「はいはい」
兄らしき少年も、重ねて言う。
「ママの誕生日だから唐揚げ作ってよ」
「それはあなたたちが食べたいものでしょう」
呆れたように話しながらも、どこか優しくて穏やかなその母親の表情が印象的で、僕はつい、なずな越しにその様子を眺める。
「ママの唐揚げ、サイコーだもん」
三人の笑い声が重なり、弾けながら流れていった。
「あのお家もお誕生日パーティなのね」
みちるの言葉で我に返り、僕はようやくなずなから視線をはずした。
「ああ。そうみたいだな」
巻かれたなずなをそのままに、僕は左手を握る。
「さて」
そう言って立ち上がり、みちるに手を差し出した。
「僕達もパーティだよ。お姫様」
みちるは僕の手を取り、微笑んだ。
「ええ。喜んで」
三月六日。今日は一年に一度、君が生まれてきたことを祝う日だ。
「今年の誕生日は、どこに連れて行ってくれるのかしら」
「そうだな……」
僕はちょっと考えてから、みちるに手を差し出してこう言った。
「ディナーの前に、一緒になずなを探しに行かないか」
思いがけない誘いだったのだろう。みちるは驚いたように目を瞬かせる。しかしそれからすぐ表情を崩して恭しく僕の手を取り、こう言った。
「ええ、喜んで」