「行きたいところがあるんだ。付き合ってくれる?」
誕生日に何か欲しいものはある?と尋ねたら、はるかはそう言った。
「もちろんよ」
サプライズのプレゼントももちろん考えてはいたのだけれど、やっぱりはるかが欲しがっているものがあるならそれをあげたくて。
だからはるかにこう言われたのはとても嬉しかった。
その日、はるかは私を車で迎えに来てくれた。
「はい、これ着てて」
助手席に乗ろうとした私に、はるかは少し大きめの上着とマフラーと手袋を渡してくれた。はるかも似たような上着を着て、革の手袋をしている。
「いつもよりちょっと長く走るんだ。陽が出ているうちに着きたいけど、たぶん寒いから。いつもよりも暖かくして乗って」
「ありがとう」
はるかが主役で、はるかのためのドライブだと言うのに。いつだって私のことを優先して考えてくれる。そんなはるかの気遣いが嬉しくて、思わず顔が綻んでしまった。
自分の上着は脱いで膝に掛け、はるかから借りた大きめの上着とマフラーを身に纏った。ふんわりと大きくて幅のあるマフラーを、少し上まで引き上げてみる。車が動き出す直前、私ははるかに隠れてこっそりと深呼吸した。
それなりに寒い日ではあるけれど、はるかの匂いのする衣類に包まれている、それだけで心も体も十分に暖かくなる気がする。
「どこに連れて行ってくれるのかしら」
助手席からはるかを見上げると、はるかがこちらに向かってウインクした。
「内緒。着いてからのお楽しみ」
そう言って、はるかは車を走らせた。
車は湾岸沿いを走り、南下していくようだった。
「この道は少しだけ時間がかかるんだけど、海沿いだからきっと楽しいよ」
はるかは運転の合間にちらりとこちらを見て言った。はるかに言われて、私は左手に見える海を眺めてみる。東京湾は穏やかに広がっていて、遠くに貨物船がぽつりぽつりと寂しげに浮かんでいた。
はるかと海沿いの道をドライブすることはよくあったけれど、何回来ても飽きることはない。
だって……。
「はるかとだったら、どこを走っても退屈しないわ」
はるかの横顔に向かって、そう言った。淡い金髪がなびく目元が、少し細くなる。
「僕も、みちると一緒だったらどこまでも行けそうだ」
道中は、他愛のない話をした。今日のヴァイオリンの練習の話。みちるのコンサートで着る予定の衣装の話。はるかのバイクの練習の話。今度はるかが出るレースのライバルの話。次の週末はどこに行きたいか。今話題になっているカフェが気になっているからそこに行ってみようか……。
「ずっと……」
ふと、会話が途切れたタイミングで、私の心にふわっと言葉がよぎった。
「え?」
――ずっと、このままでいられるかしら……。
それは泡のようにふわりと私の心の中に現れ、そして消えた。
愛しくて大切な、はるかへの温かい想い。はるかの隣にいる時に、時折現れては消える、儚い気持ち。
それは未来への不安のようでもある、けれど、この感情に出会える時、私はとても切なくて苦しくて、何か温かいものが溢れてくるような、優しい気持ちになれる。
こんな楽しい時間が、ずっとずっと続けばいいのに。
このまま夜にならないで、ずっとこの海岸沿いを走っていられればいいのに。
ずっと、はるかの隣で、はるかの匂いと温もりを感じていたい……。
「……なんでもないわ」
目を伏せて、その先を口にしなかった私に、はるかは何も言わなかった。
車は横浜付近を通りすぎ、一度海から離れて、もう一度海の見える道へ出た。はるかが言っていた通り、確かにいつもよりも遠くを目指しているようだ。
「寒くない?」
陽が傾いてきて、山の影がより一層濃くなってくると、はるかは時折こちらを心配して声をかけてくれた。
「ええ。平気よ。これ、とっても暖かいわ」
私はマフラーを示す。
私はもうずっと、はるかに抱かれて、包まれているのだから。だから、寒くなどない。
「そっか、よかった」
そう言ってはるかは、視線を前方に戻す。
はるかが私に声をかけてから、再び運転に集中する。
その瞬間が、私は好きだった。こちらに向ける柔らかい笑顔が、凛々しく締まる瞬間。それを見られるのは、助手席にいる私だけに与えられた特権。
夕刻が迫った海岸線は、淡い水色とオレンジ、そして海の底のように深いブルーが混ざり合うような美しい色を浮かべていた。迫り来る夜のキャンパスを背景に、はるかの横顔がくっきりと浮かんでいる。
「綺麗だな」
はるかがやや左前方を見て呟いた。美しい景色を見ながら愛車を運転する、その時間をはるかがとても好きだということは、何度も連れて行ってもらったドライブでよくわかっていた。
「私は海を見るより、はるかを見ているほうが楽しいわ」
「え?」
はるかが虚をつかれたような顔で一瞬こちらを向いた。それからまた前を向いて、目尻を下げる。
「それは……嬉しいけどちょっと恥ずかしいな」
金髪の隙間に見える耳がほんのり赤く染まったのは、寒さのせいではないだろう。
それに気づいたら私も自分の言ったことが少し照れ臭くなり、大きめのマフラーに頬を埋めた。
「さあ、やっと着いた」
太陽が山の陰にすっかり隠れてしまい、辺りが薄暗くなってきた頃、はるかは車を止めた。腕時計をチラリと見る。
「うん。ちょうどいいや。行こうみちる」
はるかは助手席側に回ってドアを開け、私に手を差し出してくれた。はるかの手を取り、車を降りる。
視線の先には、ぽつりぽつりとベンチの置かれた遊歩道が続いている。はるかに手を引かれ、二人でその遊歩道を歩いていった。
「そろそろだ」
はるかが立ち止まり、左側に広がる海の方を向いた。私も同じようにそちらを見る。
やがて、濃いブルーの空と海の境界線に白い光がぽつりと浮かび上がってきた。それはみるみるうちに大きくなり、海面を真っ白に染め上げていく。
私は思わず息を呑んでそれを見つめていた。繋いだままのはるかの手が、きゅっと握られるのを感じる。
真っ白な満月は、やがて海面からその全貌を現した。海面には細長く筋のように光が反射し、こちらに向かって真っ直ぐに伸びてきている。
「まるで……光の道みたい……」
思わず口にしてしまった言葉に、少し置いて、はるかが言った。
「あそこを歩いたら……二人で月に行けるかもしれないな」
思わずはるかの顔を見上げた。切なくて、儚げで、優しい目がこちらを捉えている。
その瞳を見ていたら、胸をぎゅっと掴まれたような気がして……私は堪らず、また月に視線を戻した。
――二人で、月に。
何かを暗示ているようなその言葉は、とても嬉しくもあったけれど、同時にまた私の心を波立たせた。
そう、先ほどドライブ中に感じたあの泡のような気持ち。また私の中にふわりと浮かんで、消えた。
どれだけそこで月を眺めていただろうか。いつの間にかここに来た時よりも月は高く上がり、小さくなっていた。夜は深まり、星もいくつか見えている。
「はるかの誕生日だというのに、なんだか私がプレゼントをもらったみたいね……」
私が俯いて言ったら、はるかは私の肩にそっと手を置いた。月明かりに照らされ、その髪も瞳も白くキラキラと輝いている。
「何言ってるんだよ」
私の唇に、はるかの唇が柔らかく重なる。それは夜風でひんやりと冷えていたのに、なぜだかとても、熱い。
「みちるがここにいることが、最高のプレゼントだ」
はるかは耳元でそう囁いて、私を抱きしめてくれた。
「お誕生日おめでとう、はるか。
私と……ずっと、一緒にいてくれる?」
はるかの腕の中は、どんな上着を着るよりも、温かくて大きくて優しくて、安心する。
「もちろん。……ずっと一緒さ」
波の音と共に聞こえて来た言葉を、私は目を閉じて聞いていた。
心の中の淡く儚い泡沫は、波の音と共に溶けて消え、海に帰っていった。
きっとこれからも、私の中にこの泡沫が現れるたびに、はるかはそれを消してくれるのだろう。
そして、最後は二人で……。
その時がずっとずっと先であるようにと祈りながら、私ははるかの背中に回した。