瞼に、光を感じる。
みちるがゆっくりと目を開けると、寝室の天井が見えた。紛れもなくはるかと二人で過ごす家の寝室だ。眠る前にはるかと繋いだ手が依然として繋がれており、そこに確かにはるかがいることを確認できた。
そちらを振り向いて見る前に、手に力を込めてみた。軽い力で握り返される。みちるはゆっくりと首を横に動かした。はるかが目を開け、同じくこちらに向けて首を動かす様子が見えた。
「みちる」
はるかが優しい声でみちるに声を掛け、微笑んだ。いつものはるかの声だった。みちるの頬が自然と緩み、同時に心の奥底の緊張もじんわりとほぐれるのがわかった。思わず目頭が熱くなる。
「はるか」
――二人で、戻ってこられた。
得体の知れない空間に放り出され、戦い、一度は死を覚悟したが、戻ってくることができた。戦いには慣れているはずだし、数ヶ月前にもっと大きな戦いを経験していたけれど、知らず識らずのうちに心も身体も緊張と恐怖に蝕まれていたのだ――みちるはそう悟った。
「戻ってこられたな」
みちると同じことを考えていたかのように、はるかがそう言った。言いながら、繋いでいない方の手を伸ばし、みちるの髪に触れる。はるかはみちるを自らの胸元に引き寄せた。みちるははるかの胸元に顔を埋めてから、彼女に見えないよう、こっそり自分の目元を拭った。
はるかとみちるは一晩眠り、朝を迎えたようだった。時計の針は六時を少し過ぎたところだ。窓の外は明るくなっている。視界に入る世界を見る限り、いつも通りの朝だった。
すぐにでも起き上がって外の様子を確かめてみても良かったのだが、二人共しばらくベッドから動けなかった。単純に、夢の中で起きた出来事に心身が疲れていたということもある。しかしそれ以上に、互いの体温から感じられる安心感にもう少しの間浸っていたいという思いも強かった。その気持ちを表すかのように、はるかの手は何度もみちるの髪を、みちるの手ははるかの背中を、それぞれに重ねてゆっくりと撫であっていた。
やがて、みちるははるかの胸元から顔を上げた。潤んだ瑠璃紺の瞳がはるかを見つめる。
「二人で戻ってこられて、よかった」
みちるの呟くような一言に、はるかは、ああ、と頷く。夢の中で冷たく微笑んでいたウラヌスは影も形もない。目の前にいるのは、深い慈しみを持った瞳で自分を見つめる、みちるが愛するはるかだけだった。
二人は互いの身に起きた出来事を確認し合った。みちるはウラヌスと戦ったこと。はるかはネプチューンと戦ったこと。細部に違いはあったが、二人とも相手を倒すことが出来ないまま、というよりは相手を倒す意思を持てないまま戦いが終わり、気づいたらあの場に倒れていた、という点は相違なかった。
「敵、だったのか?」
はるかは目を細め、夢の中で見た出来事に思いを馳せるような表情になり呟いた。顔を動かすと、まだ夢の中でネプチューンに首を絞められた感覚が残っているような気すらした。
みちるも考えるような表情で俯いた。夢から覚める直前にウラヌスとネプチューンに言われた言葉を思い出す。
「彼女たちは私たち自身の闇と言っていたわね」
みちるの言葉に、はるかも頷いた。
「ああ。その闇に打ち勝った、とも言っていたな……だけど僕たちは、ウラヌスとネプチューンに負けている」
二人は夢の中の体験を振り返って考えたが、夢の中のウラヌスとネプチューンの発言の意図も、戦いの意味も、曖昧模糊としてよくわからなかった。
「あとは……そうだ。試されていた、って言われたよな」
はるかがまた思い出すようにそう言った。はるかの一言で、みちるも頭の中でウラヌスとネプチューンの最後の言葉を反芻する。
――あなたたちは試されていたの。タリスマンに。
自分たちが何を試されていたのか。そして自分たちが戦っていた闇とは何だったのか。あの夢はなんだったのか……疑問は多いが、それを尋ねる先はない。
はるかがふぅとため息をついて、みちるに回していた腕を解いて体勢を変え、仰向けになった。もう片方の手はみちるに繋がれたままだ。みちるはそのままの姿勢で、仰向けになったはるかの横顔を見つめていた。
「何を試されていたのかしらね、タリスマンに」
みちるが答えを求めない呟きを吐き出し、二人はそのまましばらく考える。
「タリスマンを持つにふさわしいか……とか」
はるかは一瞬そう言ったが、そのあとすぐに「いや、違うな」と呟いた。はるかははっきりとは言わなかったが、みちるはなんとなくその理由を察した。すでに二人はタリスマンを手にするようになって数ヶ月経っているから、今このタイミングで所有のふさわしさを確認するのはあまりに今更であると思ったのだ。それに、二人が経験した戦いの何を持ってふさわしさを確認していたのかもよくわからず、納得できるような答えだと思えなかったのである。
うーん、と唸るはるかから視線を逸して、みちるも仰向けになった。真っ白な天井に、カーテンの隙間から差し込む光が筋のように光って煌めいているのが見える。それを見ながら、みちるは再びウラヌスとの戦いに思いを巡らせた。
僕は、君の中の闇だ――ウラヌスが真っ先にそう言ったことが思い出される。
自分の中の闇。
目を逸しているもの。
向き合いたくないもの。
そして、その闇から突きつけられたのが、はるかに対する思いだった。
結局みちるは、突きつけられた事実がはるかの本心ではないかと疑い、煽られ、攻撃をしかけたが、やめた。
これで何を持って「闇に打ち勝った」と言えるのか――。
みちるはそこまで考えてから、顔を横に向けた。はるかもみちると同様、ぼんやりと天井を眺めて考えているようだった。みちるの視線に気がついたのか、はるかも首を動かしてみちるの方を向いた。それからゆっくりと上半身を起こし、俯いて、迷うように視線を泳がせた。
「……僕たちがお互いを信じられるかどうか、かな」
はるかがぽそりと呟いた。唐突なことで、みちるは「え?」と返すことしかできなかった。はるか自身も、自らの考えを整理しきらないまま口にしたようで、迷うような表情のまま、少しの間黙っていた。はるかが考える間に、みちるも起き上がってベッドの上に座り、はるかの方を向く。
はるかはまた、口を開いた。
「いや、なんて言ったら良いのかな……僕たちはお互いに対する思いとか迷いを自分の”闇”から突きつけられて……そして、相手を攻撃せず……つまり、闇に抵抗せずに……それを受け入れたわけだよな」
はるかは自らの考えを整理しながら話すかのように、ゆっくりと丁寧に話した。みちるは黙って頷く。
「もし僕が闇に抵抗していたら……それは、僕が本当のみちるの思いを信じられずに、闇の言うことに振り回されてしまった、ってことになるのかな、って」
みちるははるかを見つめて目を丸くした。それは予想外の答えだった。
確かにそれであれば、ウラヌスと戦わなかったにも関わらず「闇に打ち勝った」と言われた理由について納得できると、みちるも思った。
しかしはるかは、言った後で額に手を当て、首を振った。
「ごめん。こんなこと言ったら、まるで僕がみちるのことを信じていなかったみたいだ。それに、なんでタリスマンに試されていたか、の答えにはなってないな」
忘れてくれ、と言ったはるかに、みちるは縋るようにして手を取り、首を大きく振った。
「いえ、はるか」
みちるは目を大きく見開き、はるかを見つめた。その瞳の奥が震えていることに気づき、はるかははっとする。
「ごめんなさい」
みちるははるかの手を握ったまま、そこに自分の額を押し付ける。みちるの目から涙が溢れて零れ落ちた。
「みちる……」
はるかは驚いたように目を見開き、それからみちるの頭にそっと触れた。みちるははるかの胸に自らの顔を寄せるように埋めた。
「私、はるかのことを信じられていなかったわ」
掠れた声で、みちるが呟いた。はるかは何も言わず、みちるの頭を撫でる。みちるは小さな声で続けた。
「夢の中で、ウラヌスに言われたの。戦士になりたくないはるかを戦士にした上、戦いが終わった後も私が縛ってしまっているって。
私……もしかしてそれが、はるかの本心ではないか、って思ってしまったの……」
みちるの発言に、はるかは驚き、そんな、と口の中で呟きかけた。そして悲しげに目を細めた。
みちるの涙は、夢の中で自分と同様、闇に突きつけられた事実と戦っていたことを物語っている。はるかはみちるの苦悩を悟り、胸が苦しくなった。
みちるに縛られているだなんて、僕は思っていない。いや、そればかりか、僕のほうこそみちるを――。
「僕も、だ」
はるかは振り絞るように言葉を発した。みちるははるかの胸元から顔を上げ、彼女の顔を見上げる。
「ネプチューンに言われた。僕が自分を偽っていて、みちるのことを縛っているって。ネプチューンに言われたことに逆上して、僕は夢の中で彼女を攻撃して傷つけてしまった」
みちるははるかの発言にまた目を見張り、そして首を振った。
「そんなこと……」
みちるはそう呟いたものの、そこから先が言葉にならず、涙をぽろぽろと流しながらはるかを見つめていた。
はるかに縛られているだなんて。縛っているのは私の方じゃないかと、ずっと思っていた――。
二人はお互いに見つめ合ったあと、どちらからともなくお互いの背中に腕を回し、引き寄せあった。みちるははるかの胸元に顔を寄せ、はるかが生きている証である鼓動を感じていた。はるかはみちるの柔らかい髪に鼻を埋め、そこから漂う優しい香りをいっぱいに吸った。
大事なことを、きちんと伝えられていなかったんだ――はるかはみちるの香りを感じながら、そう思っていた。お互いにお互いのことを思っているのは明らかなのに、口に出して確認した時にそうでないと言われてしまうのが怖くて。この日常が無限だと思っているのは自分だけで、実は有限であることを思い知らされるのが怖くて。一緒に暮らし始めるときも、初めて身体を重ねたときも、そしてなんでもない日常生活の中でも、いつだってはっきりと伝えるチャンスはあったのに。
「剣と鏡は対だから……私たちは信じ合わなければならない」
ウラヌスの言った言葉を挙げて、みちるがはるかの胸元で呟いた。そして顔を上げる。
「タリスマンに試されていたっていうのは、そういうことではないかしら」
はるかは不意を突かれたような表情をした。それからふっと頬を緩める。
「ああ……そうかもしれないな」
そう言った後で、はるかは緩んだ頬を引き締めた。
「みちる。僕はずっと君に言わなきゃいけないことを言えていなかった」
はるかの改まった様子に、みちるも表情をすっと強ばらせる。が、はるかは自分の堅さがみちるを緊張させてしまったのだと気づき慌てて微笑んだ。
「ごめん、そんな顔をしないで。
僕は君がそばにいてくれることに甘えて、ちゃんと言えていなかったんだ。みちる、僕はみちるが好きだ。そして、ずっと僕のそばにいて欲しい。例え僕が、世の一般的な幸せというのを君に与えられなかったとしても、僕がそれに負けないくらい、君を幸せにするから」
みちるの強ばった表情が一瞬パッと驚きに変わったかと思うと、今度はさっと紅色に染まり、それから頬が緩み、その直後には目元にいっぱいの涙が溢れ始めていた。いつも上品で優雅さを失わないみちるが、こんなに少女のようにころころと表情を変えるのだと思うと、はるかは愛おしさでいっぱいになる。
みちるは唇を噛んで俯き、少しの間はるかに言われた言葉を反芻して喜びを感じていた。それからすっと顔を上げて、言葉を紡ぐ。
「はるか、私もあなたに、ちゃんと言えていなかった。
私ははるかのことが好きよ。ずっとそばにいて欲しい。はるかとこの先もずっとずっと一緒にいたいの」
みちるが精一杯伝えた思いを、はるかは大きく頷いて、受け取った。
お互いに回された腕から、柔らかな温もりが伝わっていた。そこにあるのは、夢から覚めた安心感だけではない。ずっとずっとそばにいるという誓いを実感できる温もり。
もう絶対にこの手を離すことはないし、この先困難があってもお互いを信じるだろう――二人はそれぞれの胸に、そう誓った。
夢の中を全力で駆け、そして戦ったせいか、二人は汗もかいていたしお腹も空いていた。改めてそのことに気づいて互いに苦笑いをした後、二人はようやくベッドから抜け出した。
「でも、どうしてタリスマンに試されることになったのかは、結局わからなかったわね」
寝室を出たところでみちるが呟いた。
結局のところ、謎が全て解けたわけではないし、仮説として挙げた話の真偽も不明のままだった。無論、改めて確認した深水鏡からも情報を得ることはできず、二人がなんとなく納得する答えを導き出した、というだけだ。
しかし――。
「ああ……でもそれはもう、いいさ」
――真偽を追及するよりも、大切なことに気づくことができたから。
はるかは清々しい表情でそう言って、みちるの額にキスを落とした。
それから二人は、いつも通りの一日を始めるべく、バスルームに向かった。