「ネプチューン」
はるかは、立ち止まって胸元を掴んだ。息苦しさから、自分でも驚くほどに息が乱れている。対してネプチューンは、驚くほど落ち着いた様子だった。
「どう、したんだよ」
息を整えながら、はるかは尋ねた。その声は掠れている上に自分の戸惑いがあからさまに出ていて、情けないほどに力の抜けた声だった。
ネプチューンは、何も言わなかった。はるかを見つめる目は細く鋭く、まるで睨んでいるような視線だった。表情からは温かみをまるで感じない。自分の知っているネプチューン……もしくはみちるは、誰かに向けてこんなに冷たい顔をすることがあっただろうか。はるかの目には、目の前にいる人物がネプチューンにもみちるにも見えず、異世界から来た別人と思うほどに異なって感じられた。
「ネプチューン。いや、みちる。……だよな?」
はるかは確認するように尋ねた。姿勢を整えてまっすぐに見つめ返す。ネプチューンもはるかにまっすぐ顔を向ける。はるかは思わずたじろいだ。
「違う……お前は、誰だ?」
心臓がぎゅっと掴まれたように痛み、はるかはまた息苦しさを感じた。先程まで感じていたような、周囲からの圧迫感による苦しさとは違う。緊張感からくる胸の高鳴りが痛いほどに身体の内側を突き刺し、苦しい。
「私は、あなたの中の闇よ」
ネプチューンが口を開いた。その声は乾いていて冷たかった。ネプチューンの声は、もっと潤いがあって柔らかいはずだ。はるかの心の中で警戒心が一気に高まる。目の前のネプチューンは敵かも知れない……そう思いながらポケットに手を入れ、ロッドを握りしめた。
「私を倒さなければ、あなたは前に進むことはできないわ」
警戒するはるかには構わず、ネプチューンは淡々とそう告げた。
「どういう意味だ」
はるかが少し語気を荒げて言った。
内心、はるかは少し恐れていた。ただ自分を攻撃してくる敵であれば、力で叩きのめせばいいだけのことだが、今目の前にいる相手はネプチューンそのもので、攻撃もしてこないし意図もわからない。今まで戦ってきた敵とは、明らかに様子が違った。未知の恐怖がじわじわと身体を侵食していて、それを誤魔化すために無意識に強く言葉を発したのだった。
「はるか、あなたは自分の本当の姿を見る必要があるわ」
冷えた声がすっと耳許を抜けた。氷で撫でられたようなひやりとした感覚がはるかに駆け抜ける。
「それはどういう……」
はるかが聞き返そうとすると、ネプチューンはすっと右手を前に掲げた。その動きにはるかは一瞬後ろに身を引きかけたが、ネプチューンは攻撃してこようとしたわけではなかった。ネプチューンの目の前に光が集まり、そこに深水鏡が現れる。
「自分の本当の姿を見なさい」
ネプチューンが、はるかに向けて鏡面を見せるように鏡を突き出した。はるかは真正面に突きつけられた鏡を見て愕然とする。そこには衣服も何も身につけていない、自分の姿が写っていた。
「本当の姿を見なさい」
鏡に映る自分は、自分の身体を眺めていた。少し長めの手足、しなやかな身体のライン、くびれ、そして少しだけ突き出た胸。悲しげな表情で全身を見つめている。
――これは……。
まぎれもなく、自分だった。決して悪い容姿とは思わない、むしろ良い方に部類されるであろう自覚はあるが、好きとは言い切れない、自分自身の素のままの姿。
見たくはない。けれど、なぜか目を離せない。はるかは目を見開いたまま、じっと鏡の中の自分を見つめていた。
「あなたは自分を偽っている」
ネプチューンは鏡を突き出しながら、そう言った。はるかはたじろぐ。
「どういう意味だ」
「あなたは自分のことを受け入れられていない」
ネプチューンは一歩はるかに近づいた。はるかは、鏡に映る自分を見つめたまま、一歩後ろに下がる。
「そんなことは……」
はるかがネプチューンの発言の意図を図りかねて戸惑っていると、ネプチューンは一瞬ふっ、と頬を緩めて言った。
「はるかは自分の本当の姿を認め、私を解放する必要があるわ」
ネプチューンの言葉に、はるかはドキリとする。
――解放?
ネプチューンの表情が少し和らぎ、その口から名前を呼ばれたせいだろうか。別人に見えていたネプチューンがいつもの彼女の姿に見え、その言葉もはるかの心に妙に深く刺さるように感じた。
「このままはるかと一緒にいても、私は幸せになれないのよ」
ネプチューンは、まるではるかの心情の変化を読み取ったかのように重ねてそう言った。また一歩前に出た彼女に対し、はるかは無意識のうちにじり、と一歩下がる。
――やめろ。
はるかは思わずそう口にしそうになった。
「私だって本当は、普通の幸せが欲しいの」
ネプチューンがそう言った瞬間、彼女の背後から、突然男性が現れた。顔はよく見えなかったが、背が高く、光沢のあるグレーのタキシード着ており、スタイルが良いことは伝わってくる。
「みちる」
男性がネプチューンに声を掛け、手を差し出した。ネプチューンはそれに応えるように自らの手を乗せる。はるかはその様子を、わけがわからないまま見つめていた。
「行こう」
ネプチューンがはるかにちらりと視線を投げた。呆然と見つめるはるかを横目に、ネプチューンは男性に親密そうな表情を向けて腕を絡める。先程までの冷たかった表情は一転して、ネプチューンは見知らぬ男性に温かく柔らかい笑みを向けている。
反射的にはるかは、「おい」と声を上げかけ、思いとどまった。目の前のネプチューンは、敵に操られているか、敵がネプチューンに扮しているのか、あるいはただの夢なのか……正体はわからないが、どう考えてもいつものネプチューンではない。それなのに、ついいつものネプチューンと同一視してしまったことに、自分自身が驚いていた。
「あなたと一緒にいたのは、戦士としての宿命があったからよ。戦いが終われば、もう一緒にいる必要はないの」
ネプチューンはそう言って、空いた方の手を男性の頬に伸ばした。男性がそれに応えるように身体を傾ける。まるでその場で二人抱き合い、キスしようとするかのように顔が近づいた。
「はるかは、もういらないわ」
近づく男性に顔を向ける直前に、ネプチューンがはるかにちらりと視線を投げ、そう言った。途端にはるかの身体の中を、全身の血液が逆流するような強い衝動が走った。まるで心臓を鷲掴みにされたかのようにギュッと痛みが走り、目を見開く。
「やめろーーーーっ!」
気づいたらはるかは、二人に向かって突進していた。ネプチューンにまとわりつく男性を振り払おうと、思い切り拳を打とうとする。
はるかの意に反して、ネプチューンが男性を庇うように自分の方に寄せた。はるかの拳が空を切る。はるかはすぐに体勢を整え、今度は足を高く上げた。男性の頭めがけて、思い切り回し蹴りを入れようとした。しかしまたしても、明らかにネプチューンの意志によって、はるかの攻撃は躱される。
――なぜだっ!
はるかは頭にかっと血が昇るのを感じていた。自分が冷静さを失っていることに気がついていたが、それを制御することができないでいた。
「なぜそいつを庇う!ネプチューン!」
はるかは二度の攻撃を仕掛けたあと、ネプチューンに向かって叫んだ。ネプチューンと男性は、はるかから攻撃を受けたにも関わらず、乱れることなくぴたりと寄り添ったまま立っていた。
ネプチューンははるかの問いには答えず、ふっと笑みを浮かべた。それは、はるかがいつも見ている優しい笑みではなく、蔑むような冷たい視線だった。はるかはそのネプチューンの表情にまた軽いショックを受ける。
そんな中、男性が口を開いた。
「君の攻撃は、君の自信のなさの表れだよ」
渋みのある、大人の男性の声だった。その声は、ややはるかを馬鹿にするような、あるいは子どもを宥めるような、そういった含みも感じられた。内心、落ち着かなければ、と思って自分に言い聞かせ続けていたはるかだったが、男性が口を挟んできたことには苛立ちを隠せなかった。
「黙れ!」
強く叫んだはるかに、ネプチューンがまた笑う。
「私はもう、はるかを必要としていないのよ」
「やめろ!」
ネプチューンの畳み掛けに、はるかは思わず二人をカッと睨みつけて腕を掲げた。その手の先にはロッドが握られている。
そこからは瞬く間に状況が変わった。はるかは即座にセーラーウラヌスに変身したかと思うと、すぐさま片腕を掲げた。一瞬でその手の先に光球が作り上げられる。そしてその光球は、迷うことなくウラヌスの腕から放たれた。その間、わずか数秒。
「ワールド・シェイキング!」
ウラヌスは確実に男性に向けて攻撃を放った。ネプチューンについては敵が彼女に擬態しているのか、あるいは彼女自身が敵によって操られているのか定かではなかったが、いずれにしても傷つけるつもりはなかった。ただ、ネプチューンに馴れ馴れしく身を寄せている男性については、どうなってもいいと思っていた。ウラヌスは、男性が逃げることもできず、ネプチューンが男性を庇うこともできないほどの速さの攻撃を二人に放った。おそらくそれは、これまでの戦いの中で放ったどの攻撃よりも速い。ウラヌスはそう実感していた。
しかしそこでウラヌスにとって想定外の事態が起きた。攻撃が男性に当たる直前、ネプチューンが男性を庇うように前に出たのだ。普段のネプチューンであれば絶対に間に合わないほどの攻撃を放ったつもりだが、ウラヌスの想像を上回るスピードでネプチューンが動いた。
「なにっ」
激しい音を立てて目の前に砂煙が立ち昇るのを、ウラヌスは呆然として見ていた。全力で放った自らの攻撃がネプチューンの速さに劣っていたこと、そしてネプチューンが自分の命を顧みずに男性を庇ったこと、二重のショックを受け、ウラヌスは立ち竦む。
「ネプチューン?」
目の前に漂う砂煙の先を、ウラヌスは目を凝らして見つめていた。やがてその砂煙が少しずつ晴れてきて、瓦礫の中に横たわるネプチューンの姿が見えた。ウラヌスは慌ててそちらに駆け寄る。
「ネプチューン、ネプチューン!」
ウラヌスは愕然とした。男性の姿はどこにも見えなかったが、もはやそんなことはどうでも良かった。自らの手で大切なパートナーに攻撃を加えてしまったことに激しく動揺していた。
ウラヌスはうつ伏せで倒れ込んでいるネプチューンの傍までいき、膝をついた。彼女は体中が砂埃にまみれていた。見る限り大きな怪我をしている様子はないが、倒れたままピクリとも動かない。
ウラヌスはネプチューンの肩に手を当てて、身体を起こした。無表情で目を閉じたネプチューンの表情からは、いつもの温かみも、先程の冷たさもいずれも感じなかった。ただ、砂にまみれていてもわかる美しい鼻梁と唇のラインからは、どうしても目が離せなかった。
「ネプチューン……」
片手で頭を持ち上げ、もう片方の手でネプチューンの手を取ろうとした、その時だった。
ネプチューンが突然カッと目を見開いた。そしてウラヌスがその変化に驚く暇も与えない速さで、ネプチューンは両腕をウラヌスの首に伸ばした。ネプチューンに勢いよく押されたウラヌスは、そのまま後ろに倒される。ネプチューンはウラヌスに覆いかぶさるようにして首を掴み、そのまま絞め上げた。
「うあっ……ああ」
――くそっ、油断した……ウラヌスは呻き声を上げながら、頭の中で毒づいた。目を細めてネプチューンの表情を見るとやはり冷たく、まるで感情が読み取れなかった。それなりの力でウラヌスを組み伏せているにも関わらず、顔を歪めることなくこちらを見つめている。
「やめ……ろ……ネプチューン」
ウラヌスはネプチューンの腕を掴み、引き剥がそうとした。しかしネプチューンの力は強く、引き剥がすことができなかった。
「私と戦えばいいのよ」
ネプチューンは口端を上げて笑った。ネプチューンが戦いを煽るのは非常に珍しい状況だとウラヌスは思った。苦し紛れにふっと笑みを浮かべてみせる。
「なぜ、だ」
「戦えば、あなたは助かるじゃない」
ネプチューンは涼しげな声でそう言った。
確かに、ウラヌスは今、両手両足が空いた状態だった。ネプチューンの腕を引き離すのは無理でも、攻撃を仕掛けるか、体勢を崩すことはできるかもしれない。ウラヌスは視線だけを動かして、ネプチューン越しに自分の右手を持ち上げて見つめてみた。するとその手の中に突如宇宙剣が出現し、握られる。
――戦え、ということなのか。
途絶えそうになる息を必死で吸いながら、ぼんやりとウラヌスは考えた。右手に力が入らない。意識していなければ、宇宙剣を取り落してしまいそうだった。しかし、めちゃくちゃに剣を振るえば、ネプチューンにダメージを与えることくらいはできそうだ――。
ウラヌスは数秒間、そうして宇宙剣を見つめていた。いつでも戦えるぞ――宇宙剣はそう言っているように見えた。
しかし、そうして考えた後でウラヌスは目を閉じた。そして右手を下げ、宇宙剣を投げ出す。カラン、と金属音を立てて、宇宙剣は地面に転がった。
「どうしたの」
ネプチューンは表情を変えずにウラヌスに尋ねた。ウラヌスは目を瞑ったまま、観念したかのような表情を浮かべる。
「やめた」
吐き捨てるようにウラヌスは呟いた……つもりだったが、口の端から息が漏れる程度で、きちんと言葉にはならなかった。ネプチューンは軽く目を瞠るようにしてウラヌスを見つめた。
「なぜ?」
ウラヌスの首を絞める手を緩めることなく、ネプチューンは聞いた。ウラヌスは薄く目を開ける。ネプチューンは動揺する様子もなく、表情も口調も冷たく静かなままだった。息が苦しく、視界がチカチカと点滅する中、ウラヌスにはその表情が一瞬、いつもの優しいみちるの表情に変化したように見えた。
「みち……る」
掠れた息遣いの隙間から、その名を呼んだ。苦しさか悲しさか、もはや理由はわからなかったが、温かい涙が流れ落ちていくのをウラヌスは感じた。
抵抗する力がまるで残っていない、というわけではなかった。残っている力を振り絞れば、状況を変化させることはできたかもしれない。しかし、先程ネプチューンを攻撃して傷つけてしまった時に、すでにウラヌスは戦意を喪失してしまっていた。
ネプチューンが傷ついているのを見たくない。これ以上傷つけたくはない――そう、思った。間違いなく相手が敵であることがわかっていれば、まだどうにか抵抗をしていたかもしれない。しかし、ネプチューンに言われた言葉には恐ろしいほどの現実味があった。そのせいで冷静な判断力を失ってしまっていることに、ウラヌス自身も気がついていた。
――もう一緒にいる必要はないの。
――はるかは、もういらないわ。
みちるが、いわゆる普通の幸せを求めているかどうか。自分がそれを気にしたことがないわけではなかった。それでもみちるは戦いの日々が終わっても傍にいてくれたし、自分もみちると一緒にいることを望んだ。しかし……。
――僕はみちるに甘えていたのかもしれない。
みちるが自分の傍にいてくれることに甘んじて、みちるの本心から目を逸していた。そう、言えるのではないか。薄れゆく意識の中で、ウラヌスは考えていた。
――だとすれば、これは僕が受けるべき罰だ。
ウラヌスは諦めたように口を緩めて笑った。頭がズキズキと痛むのを感じ、目を開けようとしても光が感じられなかった。そろそろ限界だ。
敵かどうかもよくわからない相手に翻弄され、ネプチューンに手を掛けられて最期を迎えることになるとは思いもしなかった。戦いの中で死を迎えることはこれまでに十分覚悟を持っていたはずだが、想像していた以上にあっけなく、情けないものだと思った。
それでも、最期に自分の目に映るのがネプチューンで良かった。ウラヌスはそう思っていた。
ウラヌスは頭の中で、タリスマン出現の日に自分を励ましてくれたみちるの姿を思い出した。それから、月野うさぎが救世主```に見えた瞬間のこと。
あの戦いの最中の自分は、誰かが犠牲になっても世界を救わなければならないと思っていた。もしあの時に今のようにネプチューンに掴みかかられていたら、ネプチューンを敵と認識して迷いなく攻撃し、使命を優先していただろう。そう考えると、今こうしてネプチューンに抵抗せず攻撃を受け入れる自分は、あれほど甘いと詰ったうさぎと同等ではないかと思う。
――ずいぶん甘くなったな……僕も。
「それがあなたの答えなのね」
最期にネプチューンの声がした気がした。深く、柔らかい、僕の好きなみちるの声だ――そう思った瞬間に、ウラヌスの意識が途絶えた。