頬が、張り詰めたような冷たい空気に晒されていることを感じる。はるかがうっすらと目を開けてみると、部屋はまだ暗かった。
まだ真夜中か、それとももう明け方か。それを確かめようと首を捻ると、隣にいるはずの存在が消えていることに気づいた。手を伸ばしてみると、布団の中のシーツには、微かに柔らかな温もりだけが残っている。
はるかはベッドから抜け出し、リビングのドアをそっと開けた。リビングも灯りがつけられておらず薄暗い。ソファには身体をすっぽりと包み隠すほどの大きなブランケットを身に纏い、顔を埋めるように丸く座るみちるが見える。はるかはゆっくりと近づき、後ろからふんわりと抱き竦めた。
みちるは一瞬身体をぴくりと動かしたが、それ以外の反応は特になかった。はるかは何も言わずに、黙ってみちるを抱いていた。
やがてみちるがゆっくりと顔を上げる。はるかが腕を緩めると、みちるがぼんやりとした目ではるかを見つめていた。
「ごめんなさい……寒いでしょう」
みちるはそう言うと、身に纏っていたブランケットを広げてはるかを招いた。
「僕なら大丈夫だけど」
はるかはそう言って微笑みながらも、遠慮なく、とみちるの手からブランケットを取った。みちるの横に回り込み、ぴったりと身を寄せ合ってブランケットを纏う。
「あったかいや」
はるかはふふっと笑った。みちるも微笑を浮かべる。だがその顔はどことなくいつもよりすっきりしない顔だった。
「具合悪いの?」
ブランケットの中で、はるかはみちるの肩にそっと腕を回す。華奢な肩に、はるかの手の温もりがじんわりと染み込んだ。
みちるは小さく首を振る。
「そうじゃないんだけど……」
みちるは目を伏せた。薄暗いが、長いまつげにわずかな光が当たって艶めくのが見える。
「この時期は、なんだか調子が悪いの」
みちるはそう呟いて、はあ、と息を吐き出した。
「そっか」
はるかはそれだけ答える。みちるに回した手で肩を優しく摩った。みちるは目を瞑り、はるかの手の温もりを感じる。
「寒さのせいかしらね。気持ちが沈んでしまって……何をやっても調子が悪くて、いつもなら気にならないことが気になってしまって……ヴァイオリンのお稽古をしても、絵を描いてもだめなの」
みちるが目を閉じたまま、小さな声で吐き出すように言った。はるかは黙って頷きながら聞いていた。
「いつもなら少しくらい落ち込んでも、何かしているうちに忘れられるんだけど……ここ何日かは、どんなに頑張っても自分のヴァイオリンの音が乗らないし、他の人の演奏がすごく良く聞こえてしまう。
それでどんどん落ち込んでしまって」
そこまで言って、みちるはまた自分の膝に顔を埋めた。
「こう言う時……」
みちるは顔を埋めたまま、続ける。くぐもった声を聞き取るため、はるかはみちるの頭に自分の頭をくっつけるように近づけた。
「こう言う時、誰とも話したくないくらいに沈んでしまうの。だからごめんなさい、ここ何日か私、あなたに優しくできなくて……」
そう言われて、はるかはここ何日かのみちるの様子を思い出した。確かに最近のみちるは口数が少なく、家にいても本を読むとか絵を描くとか言って、部屋に籠ってしまうことが何度かあった。
少し気になってはいたが、はるかが話しかければいつも通りに答えてくれていたし、ヴァイオリンの稽古などもあって疲れている様子でもあったから、深く追及はせずに見守っていたのだ。
「気にしなくていいよ」
はるかは囁いた。それでもみちるは顔を上げないまま、小さく首を振る。
「こんな自分が、嫌になるわ」
消えてしまいそうな声で、みちるが呟いた。
はるかは肩に回していた手で、みちるの髪を撫でた。柔らかくうねりを持ったその髪を指で鋤く。
「僕はそんなみちるの一面を知ることができて嬉しいけど、ね」
はるかが呟くと、みちるが少しだけ頭を傾けた。隙間から片目を覗かせる。
「……嫌味かしら……」
みちるの答えに、はるかは苦笑する。
「違うって。
僕にもまだみちるの知らないところがまだあったんだな、って思ってさ」
言いながら、はるかはみちるの頭にぽんぽん、と触れる。みちるは隙間から顔の片側だけを覗かせたまま、はぁ、とため息をついた。
「きっと私、毎年こうなるわよ」
「構わないさ」
はるかはみちるの顔にかかっていた髪をよけた。膝に埋もれるみちる深碧の瞳が、暗い部屋の中、わずかな光を跳ね返して光っている。
「一年のこの時期にしか会えないみちるが、いるってことだろ」
はるかはそう言って、少しだけ見えているみちるの額にそっと口付けをした。
「さて」
はるかはブランケットからそっと抜け出し、みちるを包むようにかけなおした。
「温かい飲み物でも入れてくるよ」
そう言って、キッチンへ向かっていく。
ソファに一人残されたみちるは、はるかがかけなおしてくれたブランケットを頭からすっぽりと被った。ブランケットの中で、先ほどはるかの唇が触れた額に触れてみる。
本当はもう、ブランケットも飲み物もいらないくらいに、身体は温まっているのだけど――。
ブランケットの中で弾んだ心臓の音を聴きながら、みちるはもう一度膝に顔を埋めた。