これは、どこか遠い国のお話。
エメラルドグリーンの美しく暖かい海の底に、海の色にも負けないくらいに美しい髪を靡かせる一人の人魚が住んでいました。
名前は、ネプチューン。ネプチューンは珊瑚で作られた美しい音の出る楽器を、日がな奏でるのが好きでした。
ネプチューンは、もうすぐ十五歳になります。海の神様からは、十五歳になる月の満月の日までに、運命の人を見つけてキスをするように言われていました。
「運命の人とのキスができなければ、あなたは満月の夜に海の泡となり消えてしまいますよ」
ネプチューンはずっとずっと一人で生きてきました。友達と呼べるのは、海の中の魚くらいでした。だから運命の人を探すよう言われても、どうすればいいかわからなかったのです。
「でも、運命の人を探さなければ、わたしは泡になって消えてしまう」
ネプチューンは思い切って、人が住む町の近くまで行ってみることにしました。
そこは美しい海がよく見える港町でした。白い建物がたくさん並ぶ、明るくて綺麗な町です。
港の近くまで来てみたものの、ネプチューンは海から出ることはできないので、人がいる場所まで出ていくことができません。
「困ったわ」
どうすることもできなかったネプチューンは、せめてここまで来たのだから、と岩場を見つけて座り、珊瑚の楽器を奏で始めました。
「なんだろう、この美しい音は」
町の少年が歩いていると、美しい音が聞こえることに気がつきました。今まで聞いたどんな音楽よりも美しい。そう思いました。
少年は自然と海に足が向かいました。港の近くの岩場に、誰かが座っています。少年は近づいてみてびっくりしました。まるで海の色をそのまま掬って流したみたいに美しい、エメラルドグリーンの髪の少女がいたからです。
美しいのは髪だけではありませんでした。彼女の横顔は町に住むどんな美女よりも美しく、肌は内側から光を放つように輝いていました。少年は思わず彼女に見とれてしまいました。
「あなたは、だあれ?」
ネプチューンは、少年に見つめられていることに気がついて演奏を止め、尋ねました。
少年は呼びかけられてはっとしました。
「ぼ、ぼくは、ウラヌス。この町に住んでいる。きみは?」
「わたしはネプチューンよ」
ウラヌスがネプチューンにもう一歩近づいてみて、また驚きました。彼女が人魚であることに気がついたからです。人魚はこの町では伝説の生き物として語り継がれ、見た者は幸せになれると言われていました。
「さっきの綺麗な音は、きみが?」
「ええ、そうよ」
ネプチューンはそう言って、もう一度珊瑚の楽器を弾き始めました。美しい音色に、ウラヌスは酔いしれます。
「すごいや。こんなに美しい音色を聞いたのは初めてだよ」
それから二人は、お互いの住んでいるところの話をしました。
ネプチューンはエメラルドグリーンの海の底の話を。ウラヌスは白い建物がたくさん並ぶ明るい町の話を。お互いが知らない世界の話を聞くのは楽しく夢のようで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。夕陽が海に沈みかけ、ウラヌスは帰らなければいけないことを思い出しました。
「とても楽しかったわ。また会えるかしら」
「もちろん。またここに来るよ」
夕陽を背に浴びて去るウラヌスを見て、ネプチューンは胸がドキドキするのを感じていました。
「こんな気持ちは初めて。わたし、どうしちゃったのかしら」
それから、こう思いました。
「ウラヌスが運命の人だったらいいのに。いいえ、きっとそうよ」
次の日から、ネプチューンとウラヌスは毎日会うようになりました。ウラヌスは町の学校に通っていたので、毎日学校での出来事を話して聞かせます。ウラヌスは町で一番足が速く、ウラヌスに勝てる者は誰一人いませんでした。
それからウラヌスは、自動車に乗るのも好きでした。ネプチューンのところに来るのに、たびたび自動車で来ては、ネプチューンを驚かせました。
「わたしも乗ってみたいわ。海から出られればいいのに」
「本当に残念だ。でもぼくがきみの分までたくさん走って、きみに海の外の世界のことを教えてあげるよ」
ネプチューンは、自動車のことを話す時のキラキラしたウラヌスの笑顔も、風に靡いて煌めくウラヌスの金髪も、海の色を写す美しいグリーンの瞳も、とても好きでした。ずっとウラヌスと一緒にいて、毎日この笑顔を見ていたいと思いました。
でも、運命の日は刻一刻と近づいてきます。
ネプチューンは十五歳になりました。
「ウラヌスにキスをしてもらえなければ、わたしは泡になって消えてしまう」
でもネプチューンはウラヌスに自分の気持ちも運命のことも言えませんでした。そしてついに満月の日を迎えてしまいます。
その日も二人は、いつもの場所で会っていました。ウラヌスはいつも通り、学校での出来事を話します。でもネプチューンは、夕刻が近づくにつれそわそわとしてきて、ウラヌスの話が耳に入ってきませんでした。
「どうしたの。今日のネプチューンはなんだか変だ」
ウラヌスの言葉に、ネプチューンは堪えきれず涙を零しました。ウラヌスは慌てます。
「ごめんなさいウラヌス。でもわたしは、もう泡になって消えてしまうかもしれないの」
もうすぐ月が昇ってきます。そちらに向かってネプチューンが手をかざすと、身体がうっすらと透けているのが見えました。もう時間がありません。
ネプチューンはとうとう、自分の運命について話しました。
「ウラヌス、わたしはあなたのことを、運命の人だと思っているわ」
ネプチューンはウラヌスに言いました。
「ネプチューン……でも、ぼくは」
ウラヌスは一瞬戸惑ったようにそう言ってから、わかった、と頷きました。
「ネプチューン。ぼくはネプチューンのことが好きだ」
夕陽が沈み、暗くなりかけた海辺で、二人はキスを交わしました。
ウラヌスもネプチューンもその瞬間、喜びでいっぱいになりました。間違いなくこの人は運命の相手なのだと、お互いに感じていたのです。
けれど、それからすぐにネプチューンは様子がおかしいことに気が付きました。透けかけた身体が元に戻りません。
「どうして。遅かったのかしら。それとも……」
ウラヌスは運命の人ではなかったのだろうか。ネプチューンがウラヌスを見ると、ウラヌスはとても悔しそうな顔をしていました。
「ごめん、ネプチューン。
ぼくは、女なんだ。ぼくはきみの運命の人になれなかったんだ!」
ウラヌスはそう言って、頬に一筋の涙を流しました。
ネプチューンは透けかけた自分の手を、ウラヌスの頬に添えます。
「まあ、そんなこと。謝らないでウラヌス。あなたは間違いなくわたしの運命の人よ」
やがて、まだ薄明るいブルーの空と海の境目から、満月が顔を現しました。
するとどうでしょう、ネプチューンの脚に付いているヒレが、少しずつ海の水に溶けだしていきました。
「ああ……やはりわたしは、泡になってしまうのね」
ネプチューンは涙をはらはらと零しながら、ウラヌスに言いました。
「ありがとうウラヌス。あなたと出会えてとても幸せだったわ」
「ま、待ってくれ、ネプチューン」
ウラヌスが止める間もなく、ネプチューンは泡となって消えてしまいました。残されたのは珊瑚で作られた美しい楽器だけ。
ウラヌスはとても悲しみました。自分が男に生まれていればよかった。ネプチューンを生かすことができないのなら、いっそネプチューンと出会わなければよかった。自分ではない、違う誰かがネプチューンと出会っていればよかった。そう、自分の運命を呪いました。
一方、もう一人悲しんでいるものがいました。海の神様です。海の神様は、人魚の運命の相手が男か女かなど本当はどうでもよかったのです。だけどネプチューンも神様も、海が決めた運命には抗うことができませんでした。
海の神様はそのことをとても悲しみました。悲しみで波が立ち、風が吹き、海はとても荒れました。
白い建物の並ぶ美しい町の人々は、とても驚きました。いつも穏やかで美しいこの海が、こんなに荒れることはなかったのです。海から巻き起こった風や波は、激しく家々にぶつかりました。
嵐の中、海沿いに一台の自動車が停まりました。ウラヌスの自動車です。ウラヌスはネプチューンがいた美しい海が荒れるのを見て、いてもたってもいられなくなり、海に来たのでした。ウラヌスはネプチューンが残した珊瑚の楽器を手にしたまま、海辺に立ち尽くしました。
「ネプチューン!!」
ウラヌスは嵐の中、海に向かって叫びました。ごうごうと鳴る風と波で、ウラヌスの声はあっという間にかき消されてしまいました。
「ネプチューン!!」
その時です。
「あっ!」
ひときわ大きな波がやってきて、ウラヌスと自動車はあっという間に波にさらわれてしまいました。
ウラヌスは真っ暗な夜の海に投げ出されました。ああ、もうぼくは、助からない。走ることも自動車に乗ることもできない。でもネプチューンのいた海ならば、ネプチューンに会えるかもしれない……ウラヌスがそう思っているうちに、意識が遠のきました。
泡になって溶けたネプチューンは、海中を漂っていました。それはとても不思議な感覚でした。今までのように自由に泳ぐこともできなければ、楽器を弾くこともできない。でも大好きな海をふわふわと漂うのは、気持ちの良い事でした。
だけどそれもほんのつかの間のこと。間もなく海が荒れ始めました。ネプチューンは荒れた波に揉まれて漂っていました。
すると突然目の前に、自動車と一人の人間が飛び込んできたのです。
「ウラヌス!」
ネプチューンは声を発することはできなくなっていましたが、確かにウラヌスの名を呼びました。ウラヌスはあれよあれよという間に、海の底に沈んでいきます。
――ああ、ウラヌス。どうすればいいの。
荒波の中で、ネプチューンは必死でウラヌスを助かるよう祈りました。
すると、不思議なことが起こりました。沈んでしまったと思われたウラヌスの身体が、再び浮かんできたのです。まもなく海は鎮まり、ウラヌスは波によって浜辺に運ばれてゆきました。
ネプチューンの思いが海の神様に届いたのです。
砂浜に打ち上げられたウラヌスは、朝日が昇るとともに目を覚ましました。海はすっかり穏やかで、いつものエメラルドグリーンに戻っていました。
「あれ、ぼくはなぜこんなところに……」
ウラヌスは自分がなぜここにいるのか、思い出せませんでした。そればかりか、手に持っていた珊瑚の楽器も流され、ネプチューンとの思い出もすっかり頭から消えてなくなってしまっていました。
だけど眠っている間に、海を漂う夢を見たことだけ、覚えていました。美しい人魚と一緒に。それはとても心地の良い夢でした。
それからしばらくして、町では、満月の日の夕暮れ時に海辺に行くと、美しく悲しい音色が聞こえる、と噂されるようになりました。
ウラヌスは満月の日になると必ず、何かに導かれるように海へ自動車を走らせるのでした。
人魚と人間の、まるで泡のように儚い恋のおはなしでした。