もう、地球にも彼女にも未練はないし、残すつもりもない――そう決めたはずだったのに。なんだって縁ってのは、切れずにしつこく繋がっているんだろうか。
久しぶりに降り立った地球は、夏が終わって少し経った頃だった。俺たちの星を象徴する、小さなオレンジの花の甘い香りが、出迎えるかのようにあちらこちらから香っている。
俺たちが地球を去ってから六年もの月日が流れていた。
火球皇女が久しぶりにおだんごに連絡を取ったら、なんだかんだで会いに来たらいいと誘われて、その流れで俺たちも呼んでもらえることになった。トントン拍子で、迷う暇も与えられないくらいの早さで決まったその再会に、俺は少しだけ緊張して、そして何処か期待もしていた。
――今、アイツに会ったら……あの頃とは少し変われてるんじゃないか。お互い大人になったことだし。
だけど、突きつけられたのは、残酷なまでの現実で。
「結婚……決まったんだ、アタシ」
躊躇いがちに、だけど嬉しそうにはにかんで伝えられたその事実に、俺は頭が真っ白になった。
「おめでとう」の一言を、ちゃんと口にすることができていただろうか。それすらもよく覚えていない。
だいたい俺は、何を「期待」していたって言うんだろう。アイツにはずっと、衛さんという彼氏がいたっていうのに。アイツが幸せになることは、嬉しいことのはずだっていうのに。
でも、ダメだった。地球の懐かしい空気と、あの花の香りを嗅いだら、あの時諦めた気持ちをあっさりと思い出してしまったんだ。
気づいたら俺は、夜天も大気も火球皇女も置いて、一人夜の街を歩いていた。
一人になりたい時に限って、会いたくないヤツに会ったりする――。
「何しけたツラして歩いてるんだ」
「お前……」
切れない縁がここにも。もっとも、こっちは本当に切りたくて切ったつもりの縁だったのだけど。やはりしつこく切れずに残っていたらしい。
珍しく一人で歩いていたヤツ――天王はるかは、みちるさんという華やかな存在が横に並んでいなくても、相変わらず目を引く立ち居振る舞いだった。道行く女性達がちらりと振り返る様子が視界に入る。
「おだんごに会ってきたんだろ。バカ正直にショック受けてきたのか」
何でもお見通し、といった風な表情が腹立たしいが、その通りだった。俺は露骨に嫌な顔を隠さず答える。
「ああ、そーだよ。悪いか」
適当にあしらって、馬鹿にされて、さっさと別れてしまおう。そんなつもりでひと睨みし、次の言葉を待った。
が、意外にも天王は俺を馬鹿にするでもなく、ふっと表情を緩める。
「な、なんだよ」
「いや」
俺がその態度に戸惑っていると、天王は首を振り、くいっと親指を後ろに向けて指してみせた。その口から発せられた言葉に、俺はまた驚くことになる。
「なあ、ちょっと付き合ってくれないか」
天王に連れて来られたのは、都内の小洒落たバー。ひっそりとした地下にあって、常連客らしい客がカウンターに数名座っているだけの、こぢんまりとした空間だった。
俺たちが数年前に地球でアイドル活動をしていた時に、もしすでに成人していたのであれば、こういったところを行きつけに飲むなんてこともあったかもな……と、無意味な想像をしてしまいたくなるくらいには、雰囲気の良さとセンスを感じた。
「まあ、座れよ」
手慣れた様子で俺を席に招き、マスターに何かを指し示す。マスターは軽く頷いてから、すぐにグラスを二つ持って戻ってきた。どうやら天王はかなりこの店に通い慣れていて、マスターともツーカーの仲みたいだ。
「よく来るのか、ここ」
「まあな」
天王からグラスを受け取り、軽く乾杯する。中身はウイスキーだった。多分、そこそこの年代物だ。
天王がグラスに口をつけるのを見ながら、俺は不思議な気分でいた。まさか大人になってこんなところに来るとは思っていなかったし、まさか、よりによってコイツと。だけど、嫌な気持ちはしない。
「いつまでここにいるんだ、お前ら」
「明日には帰るよ」
「そうか」
他愛もない話をなんとなく交わし、ウイスキーをちびちびと啜った。天王からは、キンモク星での生活のことを聞かれたり、地球の戦士たちの今の状況が語られる。言葉は多くないのにそれほど気まずい雰囲気もないのは、このバーの空気のおかげなのだろうか。それとも……。
「そう言えば、今日、みちるさんは?」
会った時から気になっていたが、聞きそびれていたことを聞いた。天王は視線をバーカウンターの方に向けたまま、グラスを軽く傾ける。
「今日はちょっと、な」
遠くを見るように細めたヤツの視線に何かを感じて、俺はもう一言、口を開こうとした。
が、その前に天王の一言に遮られる。
「お前って、さ」
「なんだ」
ちらりとこちらを向いた天王の視線に、少し意地の悪い微笑みが浮かんだのに気づいて、俺は思わず身構えた。
……が、遅かった。場の雰囲気に心が緩んでいた俺は、思い切りジャブを食らってしまう。
「案外、未練たらしいんだな。顔に似合わず」
「……なっ」
その瞬間に、俺は数分前までの自分を呪った。一瞬心を許しかけたけれど、やっぱり俺はコイツとは一生仲良くなれる気がしない。だってそもそもコイツには、俺と仲良くなろうなんて意思はないのだから。
「もう六年”も”経ったよな?お前達がいなくなってから」
「お前には俺の気持ちはわかんねーよ」
そう。お前には。
ずっと想い人が傍にいるお前には――。
俺は不貞腐れた気持ちで、ウイスキーをまた口にした。ぐいっと、少し勢いよく流れ込んできた液体が、喉を熱くする。
「……そうだな。僕にはお前の気持ちはわからないな」
涼し気な顔で呟く天王は、悔しいくらいに様になっていて、場の雰囲気に溶け込んでいた。
最初少し緊張していて気が付かなかったけれど、いくら成人しているとは言え、ここは二十代そこそこの俺たちが入るには少し敷居の高いバーだ。多分、この場にいる誰よりも、俺たちが一番若い。いくらコイツが俺より何歳か歳上だからって、この店に違和感なく常連客となるコイツは、やはり俺たちとは違う何かを持っている気がする。
俺は急に場違いな雰囲気を感じてしまった。強めのウイスキーのせいもあるかもしれないが、身体がカッと熱くなる。
「俺だって、お前の気が知れねーよ」
俺の呟きに対し、ん? と整った顔を向けた天王に、何故か俺は沸々と怒りが湧いてきた。
自分の思い通りにならないことは何一つない。いつだって余裕たっぷりで、自信満々。
それが、天王はるかだ――。
気づいたら俺は酔いに任せて、言うべきではないとわかっていることを口走ってしまった。
「お前ら、この地球(ほし)のこの日本(くに)じゃ、そういう関係にはなれないだろ。それでもみちるさんを解放してやらないんだろ」
俺の発言に、天王は目を見開いてこちらを見つめてきた。口に運ぼうとしていたウイスキーはその前で止まり、形の良い唇が少し開いたままで止まる。
しまった――。
俺は思わず天王から目を逸らした。
「いや……ごめん。言いすぎた」
空気が一気に冷え、気まずくなる。俺は顔が上げられず、手元のグラスをなんとなく手の中で回し、中で氷がくるりと動くのを見つめていた。
……らしく、ない。
自分に対してそう思った。こんなヤツに嫉妬して憎まれ口を叩くほど、俺は卑屈じゃなかったはずだ。
……なのに。
――地球が、この場所が、そしてコイツが。俺の調子を狂わせる。
しばらく沈黙が続いた。ウイスキーも残り少なくなってきたところだし、グラスを置いて立ち上がってしまおうか――天王が口を開いたのは、俺の頭にそんなずるい考えが思い浮かんだ頃だった。
「そう……かもな」
「……え?」
俺は天王が言った言葉がはっきりと聞き取れず、思わずそちらを向く。怒っているのではないかと思われたヤツの顔は、びっくりするほど穏やかだった。
いや、むしろ――。
「お前の言う通りかも知れない」
――むしろ、悲しげにすら見えるその微笑みは、俺の胸を突き、痛みを感じさせた。
俺はその横顔から目が離せなくなってしまった。
――なんで、お前。
「いっそみちるも僕も、お前みたいな奴と付き合ってた方が、迷いも憂いも感じなくて済んだのかもな」
俺以上に「らしくない」発言をした天王に、俺は唖然とした。頭にさっと血が昇ったあと、それがさっと引くのを感じるほどに。
「……は? お前……本気で、言ってんのか、それ」
かろうじて、そう呟く。天王はカウンターの方に向けていた視線を、ゆっくりと、こちらに流すように寄越してきた。
「なあ、星野」
天王は、すっ、と俺に身体を寄せる。何か、ふわりといい香りがした気がした。蒼碧の澄んだ瞳の奥が見えるほどに、俺の間近に迫る。長いまつ毛が絶妙な陰影を作り、妙な色っぽさを醸し出していた 。
「僕が……忘れさせてやろうか?」
天王の信じられない発言に、一拍遅れて気がついた。そして、すぐに反応できなかった理由が、その表情に見蕩れていたからであることに、さらにもう一拍置いて気づく。
「な、お、お前」
しどろもどろになって言ってみれば、コイツはまた笑って身体を離してくれるんじゃないか――そう思ってみたが、天王は顔色ひとつ変えないまま、俺のことを見つめていた。
図らずも、俺はしばらくそのまま天王と見つめ合う形になってしまっていた。吸い込まれるように、俺はその目から視線を逸らすことができないでいた。
やがて、天王が目を瞑り、俺に向けてさらにその距離を詰めて来ようとするのがわかった。
「……!!」
その先に、行われようとすること――瞬時に想起された行動に、俺は思わずギュッと目を瞑ってしまう。俺の周りから音が消えた――。
……が、想像された『その先』は訪れなかった。すっと目の前から気配が消えたのを感じて、俺はゆっくりと目を開ける。
天王は、元の冷めた視線、元の距離に戻って、俺に薄く微笑みを浮かべていた。
「……ばーか。冗談だよ。お前がもうしけたツラして地球に来れなくしてやろうと思っただけ。真に受けんな」
一気に顔が熱くなるのを感じた。変な想像をしてしまった自分が恥ずかしくなり、思わず拳を握る。
「お前っ……」
天王は俺の怒りと動揺には見向きもせず、グラスに残ったウイスキーを流し込んだ。そして、カウンター越しにそのグラスと代金をマスターに手渡し、立ち上がる。
「忘れたいのはお互い様、なんだよ」
「……は?」
言われた意味を瞬時に飲み込めず、俺も天王に合わせて立ち上がろうとした。が、天王がさりげなく俺の肩を掴んで椅子に押し戻す。「まあゆっくり飲んでけよ」という呟きとともに。
「じゃな、星野。もう地球には来んなよ」
片手を上げ、店の入口に向かって去っていく背中を、俺はただ黙って見送ることしかできなかった。
天王が店から消えると同時に、俺の耳に周囲の音が戻ってきた。落ち着いたジャズが、人々の話し声を妨げない程度に流れる、静かで穏やかな空間。
俺も、静穏に、そして大人らしく、お酒を飲めるはず……だった。数分前までは。
スマートに俺の分まで代金を支払って出ていったヤツを、追いかけるようにして店を出たのは、それから二十分も経った後だった。もちろん、もうヤツの姿は、どこにもない。
やるせない気持ちのまま、ふらふらと歩き始めた。街中にもかかわらず、どこからかまた、あのオレンジの花の香りがした。
種類は違うけれど、アイツから香ったのも、優しい花のような香りだった――。
「くそっ」
彼女の横顔と瞳の奥の色が、瞼の裏にこびりついて離れない。
俺はどこにもぶつけることのできない気持ちを抱えたまま、ひとり夜の街へと流れていった。