芳しい香りが漂ってきて、ぼくはぼんやりと目を開けた。部屋に残る甘ったるい空気を追い出すかのようにやってきたその香りは、ぼくの本能をいとも簡単に呼び覚まし、一秒経つかどうかという一瞬のうちにお腹が音を立てて動き出したのがわかった。
隣に求める温もりがないことは、見なくてもわかる。目が覚めたら昨日の熱い時間を思い出しながら、きみを抱き寄せて口付けて、そしてもう一度……なんて甘い願望もなくはなかったけれど。どうやらぼくの愛しい相棒は、寝起きの緩んだ顔を見せるなんて失態は犯さないつもりらしい。
隣を並んで歩くのも、互いの部屋を行き来するのも、そして夜を共にするのも、いつの間にか当たり前になったぼくたちは、新しい生活の始まりのタイミングで、自然と同居することを選んだ。元々一緒にいる時間が長かったから、もうみちるのことは知り尽くしているものだと思い込んでいたけれど、同居初日の昨日、必要な物の買い出しに出たら、新しい発見がたくさんあった。
きみが白を基調とした家具を好むこと。
アンティークな花柄の上品なカップに目を奪われていたこと。
そういった好みを大切にしながらも、ぼくの意見や好みも尊重してくれること。
そして昨晩。まだ恥じらいの残る顔でぼくを迎え入れたきみの表情もまた、それまでに何度か見たことがあるはずなのに、初めて見るかのように特別なものだった。
甘い余韻に浸りながらリビングに出ると、みちるの後ろ姿が目に入った。コンロの前とキッチン台の前をてきぱきと行き来していて、そのたびに赤いリボンで束ねられた毛先が左右にぴょんぴょんと揺れる。
「えーと、次は、マフィン……」
小さな独り言とともに食材を手に取り、手際よく調理していく様に、ぼくは思わず立ち止まって見とれてしまった。
みちるがやっている作業は、特別に難しいことでもないし、豪華な料理を作ろうとしているわけではないのだと思う。ぼくは普段料理を積極的にするタイプではないけど、家の教育でいろいろやらされて一通りのことはできるよう教えられたから、ぼくでも難なくできることだろう。なんなら、ひとつひとつの作業自体は小学校の家庭科レベルかもしれない。
だけど、なんだろう。彼女が行う動きは、ぼくが知っている料理の作業とは違う動きみたいだった。
後ろ姿だけでわかる、上機嫌な様子。指先の動きの端々に漂う悦びの空気。あと少し耳を澄ませたら、鼻歌のひとつでも聞こえて来るかもしれない。
単純に腹を満たすための準備をしているわけではない。
それは、大切な人と食卓を共にするための、もっとポジティブな時間。
みちるが皿にレタスを散らし、焼きあがったマフィンを並べ、別皿に避けてあった卵、それからソースをかける。一瞬ちらりと見えた横顔を見て、ぼくは思わず呟いた。
ああ、そうだ、これは――。
「……魔法みたいだ」
「え?」
そこで初めてみちるはぼくの存在に気づき、振り返って微笑んだ。
「起きていたのね。おはよう」
「ああ。おはよう」
声を掛けられてようやくぼくは、金縛りが解けたかのように足を踏み出してみちるの元へ歩いた。作業に戻ろうと背を向けたみちるを、後ろからそっと抱きすくめる。昨日からぼくもお揃いになったシャンプーの香りに混じって、焼けたマフィンの香りが鼻をくすぐった。
「もう。あと少しでできるのに、待てないのかしら?」
「何を作ってくれたの?」
「エッグベネディクトよ」
みちるはぼくの腕の中で手をひらりと返し、皿に向けて見せた。ふんわりと柔らかそうなポーチドエッグに、艶のあるオランジソースがかかっている。ぼくの大好きなサラダもたっぷりと盛られ、シンプルながらも皿を美しく彩っていた。
「難しく見えるけれど、魔法って言うほどじゃないわ」
みちるは可笑しそうに、だけどどこか嬉しそうな様子で笑った。
ぼくが返事の代わりに彼女の首筋に唇を押し当てようとすると、みちるは「あとは仕上げだけだから」とするりと腕を抜けて、いたずらっぽく微笑んでみせた。
ああ。この笑顔。朝から敵わないな。
首を竦めてぼくはおとなしく引き下がり、エッグベネディクトを仕上げるみちるの横で、コーヒーを淹れる準備をすることにした。
かくして、同居して初めての朝食はみちるに作ってもらい、ぼくが淹れたコーヒーとともに摂ることになったわけだけれど。
彼女が難なく作ってみせたエッグベネディクトは、とろりとした卵とカリッと焼かれたマフィンにベーコン、そして付け合わせのサラダまで最高だった。
「よかった。気に入っていただけたかしら」
「うん。…………やっぱりこれは魔法だ」
そうかしら、それはやっぱり大袈裟じゃないかしらと首を傾げるみちるに、ぼくは黙って微笑む。
料理は、食事は、ただ人間の生命を維持するためだけの作業だと思っていた。特に今までのぼくにとっては、アスリートとして身体を維持するために必要な行為でしかなかったのだ。
しかし、大切な人を思いながら作り、ともに食べることで、こんなにも楽しく輝ける時間になるのだと。みちるがあの背中とこの食事で教えてくれた。
もしかしたら時間が経てばこの毎日に慣れ、日常のルーチンワークになってしまうかもしれない。けれど。
「……明日はぼくも一緒に作っていいかな」
「もちろんよ」
嬉しそうに返すみちるの笑顔に、ぼくはこっそり誓う。
ぼくにかけられたこの魔法が、永遠に解けませんように、と。