都心ではほんのり色づく程度だった街路樹は、車を走らせるにつれその彩りを濃くしたように感じられる。ほんの少し早く秋に近づいた街並みが、二人を出迎えた。
「寒くない? みちる」
「ええ。大丈夫よ」
はるかの問いに、助手席からみちるが答える。風はひんやりと冷たいが日差しはぽかぽかと暖かく、絶好のドライブ日和だ。
二人は、北関東のある都市を目指していた。みちるがそこで行われる野外コンサートに奏者として招待されているのだ。目的地はジャズの街と言われていて、毎年十一月にまる二日ほどかけて、街角のあちこちで小さなコンサートを開く祭典を行う。みちるが招待されているのは、そこのメイン会場での各日一枠ずつのステージだった。
「きみがジャズヴァイオリンも弾くなんて意外だったな」
「父が懇意にしているジャズバーがあるの。小さい頃に何度か連れて行ってもらって、私も弾かせてもらったことがあるのよ」
みちるは、父親の古い友人が現地のジャズバーの店主であり、仕事で東北や北関東を訪れる折には必ず立ち寄っていたのだと話した。今回の出演もみちるが招かれるイベントとしては規模こそ小さいが、その友人からの打診があったから実現したのだと言う。肝心のみちるの父親は、仕事で長く海外生活を続けているため、現地に足を運ぶことはできないらしいが。
「アマチュアバンドや中学生の吹奏楽部まで出演者は幅広いけど、街全体でジャズを楽しむイベントらしいの。きっとはるかも楽しめると思うわ」
久しぶりの遠出、尚且つ堅苦しさのないイベントへの出演で、みちるはどこか肩の力が抜けたような心地よい笑顔を浮かべていた。たまにはこういう旅も悪くない。はるかも自然と頬を緩ませながら、車を北に向けて走らせた。
みちるは一日目の夕方と二日目の午前中に四十五分ずつの枠で出演する予定だった。街の中心部にある野外音楽堂にはパイプ椅子が並べられ、広場をぐるりと取り囲むように数多くの出店が出ている。
出演準備のために二人はしばし別れることになったため、はるかは街中を散策することにする。みちるからの事前の説明の通り、メインの音楽堂以外にアーケード街のあちらこちらにも小さな簡易ステージが設けられ、そこここで演奏が行われていた。どうやら、メインステージでは目を引くビッグバンドやみちるのようなプロの奏者のイベントを中心に行い、その他のステージでは地元の小さなアマチュアバンドといった形で棲み分けがされているようで、今はるかが見ているのも後者のような無名の小さなバンドだ。彼らは演奏のレベルこそまちまちではあったが、それぞれの個性や音楽に対する愛情、バンドとしてのこだわりが溢れていて、はるかはそれなりに楽しめた。
みちるの出演時間が近づきメイン会場に戻るまで小一時間、アーケード街を散策していただろうか。あちらこちらで演奏が行われているから退屈せず、時間があっという間に過ぎてしまった。日差しに包まれていたはずのメインステージはとっくに建物の影に隠れ、ぐっと冷え込みが増していた。同じ関東圏内とは言え、夕方になると都心よりもずいぶん冷え込むように感じられる。はるかの視線は、自然と出演者の控え室である簡易テントに向かった。そこがきちんと温められた空間であることを願いながら。
その流れでメイン会場に視線を巡らせると、みちると別れた頃よりもずいぶんと会場の観客が増えていることに気づいた。みちるの演奏目当てで集まった者たちだろう。ステージ前のパイプ椅子はすでに一杯だ。背の高いはるかは元より前方の席に座る気はなかったため、背後から立ち見で鑑賞することとした。
パイプ椅子のエリアの背後には小さなハイテーブルがいくつか並んでおり、簡易な飲食を楽しむことができるようになっている。そのうちのひとつのテーブルの傍でなんとなく出店を見ていると、ふと、はるかの目を引いた商品があった。
――ホットワイン。
ビールだのカクテルだの、冷たい飲み物が並ぶ中で湯気を立たせた温かい飲み物は無性にはるかの心を誘った。今日はみちるの演奏が終われば会場にほど近いホテルに泊まるだけで運転もしないから、アルコールを飲むことも問題ない。
はるかがホットワインを手にテーブルに戻るのと、観客がみちるを出迎えるために拍手を上げたのと、ちょうど同じくらいのタイミングだった。ステージに目を向けてハッとする。みちるははるかがたったいま買ってきたホットワインと同じくらい、深いボルドーのドレスに身を包んでいた。どちらかと言えば彼女のエメラルドグリーンの髪に合わせたブルー系やグリーン系の衣装を目にすることが多い中、髪色と対照的な真紅のドレスはこれまでに見ることのなかった彼女の新たな魅力を引き出すように見えて新鮮だった。
拍手が止んで、司会がみちるや観客への挨拶と来歴の紹介を行う。みちるがいつも出演するような厳かなクラシックコンサートとはかけ離れたカジュアルさだが、それでも今日のゲストの中ではもっとも風格のあると言えるみちるの存在感に、観客もどことなく背筋を伸ばしてその姿を見つめているように見える。みちるは司会の紹介に対し笑顔で応えた。
やがて、演奏が始まった。張り詰めていた空気が一転、明るく楽しげなものになる。老若男女、誰もが一度は聞いたことがあるであろう身近な曲から始まり、観客たちがうきうきと身体を弾ませるのが、はるかのいる後方からも見てとれた。ああ、みちるはこんな弾き方もできるのだった――はるかも自然と頬を綻ばせ、指先でテーブルを叩きながらリズムに乗った。
その後、ややしっとりとしたラブソングや司会とのトークを挟み、時期は少し早いがクリスマスソングへ移った。これには会場の子どもたちが歓喜し、椅子から立ち上がったり手を叩くなど盛り上がりを見せた。それを咎める者は誰もいない。クラシックコンサートとは違い、子どもから大人まで誰もがみちるのヴァイオリンを楽しむことができる場なのだと、はるかは感じた。
ずっと聴いていられそうなほど楽しい時間だったが、みちるの演目はあっという間に終わってしまった。会場の温かい拍手に見送られ、彼女はステージを降りる。観客やステージの入れ替わりで騒然とする中、ドレスの上に上着を身につけて、みちるははるかのもとにやってきた。
「お疲れ様。とても楽しかった」
「ありがとう……あら、それ」
みちるははるかが手にしていたホットワインに気づいた。はるかはみちるにも勧めるつもりで背後の店を指し示そうとしたが、その前にみちるがひとり納得したように頷く。
「あのお店ね、行きましょう。わたしも欲しいわ」
店の前に立つと、店主がみちるに気づき笑顔を浮かべた。
「みちるさんこんばんは。見事な演奏だったね」
「こんばんは、布施さん」
慣れた様子で挨拶をする二人に一瞬戸惑ったが、はるかはこのホットワインの店こそが、例のみちるの父の友人と関連するのだと悟った。みちるは布施と呼んだ店主の男性をはるかに紹介した。
「布施さんは、このジャズコンサートで出店した収益を元に、自分のお店でチャリティクリスマスコンサートを開いていらっしゃるの」
なるほど、だからホットワインなのか、とはるかは頷く。ホットワインと言えばクリスマスマーケットの定番だ。布施ははるかににっこりと微笑みかけた。
「元はみちるさんにしてあげたように、アルコールが飲めないお子さん連れのご家族でもクリスマスを楽しめるように、ノンアルコールのホットワインを出していたのが始まりなのですが」
やがて「子どもも楽しめるように」という主旨の幅を広げ、コンサートも行うようになったという。
みちるは布施からホットワインを受け取り、香りを味わうように鼻を近づけて言った。
「今日も、布施さんのホットワインが楽しみでここに来たのよ」
「うん、とても美味しかった。僕も飲めて良かったよ。……それに、布施さんのお店にも行ってみたくなったな」
はるかの言葉に、布施が嬉しそうに頷いた。
「ええ、ぜひ。今度お二人でいらしてください。その時は演奏もお願いしたいですね」
二人はホットワインを片手に、次の演奏に見送られながら会場を後にした。長時間外にいて冷え切ったみちるの身体を気遣い、はるかはそっと肩を抱き寄せる。
「そう言えばこのドレスもとても似合っていたよ。まるで、ほら……このワインみたいに深くて味わいのあるいい色だ」
「ありがとう。でもワインじゃないわ」
「え?」
みちるはホットワインの入ったカップをはるかに手渡すと、空いた手で髪を束ねていたリボンをそっと解いた。きらきらとしたラメの髪飾りが揺れ、エメラルドグリーンの髪がゆるやかに肩に落ちる。
その光景に、はるかは口角を上げてふっと微笑んだ。
「……なるほど」
夜の柔らかな光を受けたその髪とドレスの組み合わせは、まさにこれから待ち望む聖なる夜を思わせる彩り。
ひとつき先のお楽しみの日に胸を躍らせながら、二人はゆるやかなジャズの音色響く街中に消えていった。