新しい年の幕開けを、二人は互いの体温で温められた布団の中で迎えた。年越し蕎麦も食べず、年越しを祝うテレビ番組も点けず、そして除夜の鐘を聴きに外に出ることもなく。ふわりとした羽毛により外界と遮断された空間で新たな年を迎えるのは、二人が共に暮らすようになってから初めてのことかもしれない。
そんなつもりは、なかったのだ。
ただ前夜、年の瀬ギリギリまでコンサートに出演し、疲れ果てて帰ってきたみちるがソファでうとうとし始めたのを、はるかが気遣って抱き上げベッドに運んで。その気遣い虚しく「このまま年を越すなんて嫌よ」と、一年の最後にめいっぱいに甘えて見せたみちるの言葉を合図に、二人はベッドに縺れ込んで…………。気づけばぴかぴかの新年の朝日が窓を差す時間になっていた。
去る年の最後とも、明くる年の最初とも言える睦み合いは、年越しの瞬間であること以外にいつもの夜と大きく違うことはないはずなのに、いつも以上に二人を燃え上がらせた。それはもしかしたら、世間の多くが新たな気持ちで新しい年を待ち望んでいるその時間に、欲に溺れながら二人だけの世界に浸かることへの背徳から生まれた熱だったのかもしれない。
事実、その日はるかが見たみちるの肢体は、まるで年の切り替わりを経て美しさを増すのではないかと思われるほどに、輝きを放っていた。疲れているにも関わらず、いや、疲れているからこそ、気だるげな脱力感と甘く閉じられた瞳や唇が、妖艶にはるかを誘った。一年の最後の大仕事を終えたみちるも解放感からだろうか、手放しにはるかからの緩やかで優しい愛撫に身を任せ、快楽の海に思い切り浸かった。結局、みちるはゆっくり眠るどころか、明け方まで寝むことを許されないほど何度も、はるかに高みに連れて行かれた。
「あけましておめでとう、みちる」
はるかは指を伸ばし、隣に横たわるエメラルドグリーンの柔らかい髪を梳いた。みちるの唇が「もう」とはるかを咎めるようにすぼんでから、今度はにっこりと緩やかに開いて、新年を祝う言葉を紡ぐ。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね、はるか」
言葉で新年の挨拶を交わした後に、唇と抱擁でもう一度。いつも通りの二人のやり取り。だけどここは他人の目の届かないベッドの中で、さらには一晩続いた情事の後で、二人を隔てるものは何もなくて。素肌が触れ合えば、つい数時間前に二人の間に生まれた熱は、簡単に呼び戻されてしまう。はるかの指先はなめらかな背中を辿り、みちるの身体の奥底に小さな震えを生んだ。下腹部にもはるかの膝か何かが触れ、自らの手で確かめたわけでもないのにたっぷりとした潤いがそこにあるのを感じる。みちるは思わず悲鳴をあげそうになった。
「…………とんだ新年の幕開けだわ」
甘いため息を喉元でぐっと押し留め、みちるはくるりと身を翻し上半身を起こした。はるかは意外そうな顔でみちるを見つめる。
「そんなこと言ったって。最初に誘ったのは」
みちるだろ、と言いかけたはるかを遮るように、みちるははるかの唇にそっと人差し指を置く。
「このままだと寝正月になってしまうわよ」
そう言って、みちるはするりとベッドを抜け出そうとした。本音を言えばはるかが生み出した新たな熱に翻弄されかけていたし、身を任せてしまいたかった。だが新たな年の幕開け、こんなに明るく希望に満ちた日に欲情に溺れる自分を悟られたくない気持ちもあった。
「寝正月、か……。それもいいんじゃないかな」
「え?」
みちるの意に反して、はるかはその手首を軽く掴んで、彼女をベッドに引き戻した。
「だってみちる、ここ何日かろくに寝られてなかっただろ?」
「ええ、昨夜も含めてね?」
みちるがさりげなく棘のある皮肉を呟いたが、はるかは聞き流しながらみちるを腕に抱き込んだ。
「ここ最近だけじゃない。きみが安心して正月にゆっくり寝られたことなんて、もう何年もなかった。…………だろ?」
言いながら、はるかの指先はみちるの背を下から上に撫で、唇は首筋を柔らかく食んだ。みちるははるかの発言にハッと目を見開いたあと、新たに与えられた刺激に息を震わせる。
「安心してゆっくり寝られるってさ……幸せだよな」
深く温かく、幸せなため息と共に、はるかから紡がれた言葉。みちるは目を閉じ、その息遣いの余韻を噛み締める。
神経を張り詰め、いつ来るともわからない破滅に怯えながら過ごした夜。新しい年に希望を持つことも許されない、絶望に満ちた年越し。愛する人の腕に抱かれ優しい初夢を見ることはおろか、眠ることを恐れずに床につくことすらもできなかった。
はるかの指先がゆるゆると胸の豊かな膨らみを撫ぜ、そのまま下腹部まで下りていくのを、みちるは止めずにいた。
かつての使命の最中、落ち着いて寝られなかったのは自分だけではない。おそらくは、はるかも。見ていた夢の細部は違えど、近しい苦しみを味わっていたであろう彼女の言葉の重みに、その行為を止める選択肢は浮かばなかった。
「……んっ…………はる、か」
昨夜から幾度となく呼び続けた名。何度も激しく掻き抱いた、滑らかな薄い背。彼女がここに生きていることを、何度でも確かめる。はるかがみちるの身体に描く軌跡を、中を貫く細くしなやかな指を、それらに如実に反応する自身の身体でしっかりと受け止め、感じる。
「みちる………………いいよ」
低く熱い声が耳を掠め、やがてみちるの意識は白く明るい世界に飛び立った。何度経験しても心が震え、一切の雑念を手放し、はるかだけに意識を奪われる瞬間。乱れた息をさらうように、はるかが唇を啄んだ。
「初詣、行かないの?」
ずるずると続いた情事の果て、溶けるようにベッドに身を預け、みちるは呟いた。指先はまだ先ほどまでの睦み合いの余韻を愉しむように、はるかの手指を撫でさすっている。
「あれ、きみは神に祈ったり感謝したりするタイプだったかな」
にやりと口角を上げたはるかにみちるは答えず、そっと彼女の指に自らを絡ませる。
運命や未来を、神や仏という目に見えない他人に委ねても仕方がないということを、嫌と言うほど思い知らされた。二人が信じるとすればそれは、遠い昔に忠誠を誓った主君か、ただひたすらに人を信じ赦す力を持った救世主か。
「それでも人は、何かに祈りたくなったり誰かに感謝したくなったりしてしまうものなのよ」
――二人で生き延びられたことをありがたく思うと共に、また新たな年を穏やかに過ごせるように、と。
みちるの言外の思いを捉えたはるかは、ゆるやかにベッドに落ちた彼女の髪を撫でてから微笑んだ。
「そうだね。…………じゃあ、あと一回だけ」
何度目かわからなくなったはるかの口付けを合図に、二人はまた、底なしの幸せの中に溶け落ちていった。