「最っ悪だ……」
激しい雨音に混じって、はるかはこっそりと舌打ちした。天気が良く、予定のなかった午後。たまにはドライブではなく散歩に行こうとみちるを誘ったのは彼女の方だった。夏の名残を感じる日差しと、もこもこと大きく盛り上がる雲は見えていたが、到底天気が崩れるようには見えなかったのだ、なのに。
「こんな土砂降り、ひさしぶりね」
横ではみちるが大量の水を髪から滴らせながら、くすくすと笑っている。水に縁のある彼女だから、これくらいの雨は気にしないとでも言うのだろうか。それにしてもこの状況で文句の一つも言わず、むしろ楽しそうですらあることに、はるかは驚きを感じていた。
苛立ちがあからさまに顔に出ているはるかに対し、みちるはこう言ってみせる。
「本当に、あなたといると退屈しないわ」
……なるほど。みちるにとっては、このアクシデントすらも日常に刺激を与える一興と感じているのか。みちるらしい考え方に妙に納得してしまったはるかは、苛ついていた自分への自嘲の意味も込め、眉を下げ苦笑した。
「……帰ろうか。風邪をひかないうちに」
「ええ」
みちるはびっしょりと濡れたブラウスをまとった腕を、はるかに絡ませた。
軽い散歩のつもりだったから、自宅からそれほど遠くに歩いてきていたわけではなかった。十分少々歩けば戻れるだろう。途中で、同じようににわか雨に降られて慌てて走る親子とすれ違った。対して二人は、降り頻る雨に身を任せ、のんびりと歩みを進める。靴の中に水が溜まりびちゃびちゃとした感触が気持ち悪かったが、どうしようもない。
程なくして、自宅マンションにたどり着いた。はるかは率先してドアを開けて中に入り、すぐにバスタオルを片手に戻ってくる。みちるははるかが戻るのをおとなしく待っていた。そのたった数十秒の間に、玄関には大きな水溜まりができてしまった。
「ああ、みちる……せっかくのお出かけ着も可愛いメイクも台無しだ」
はるかはみちるの頭にふわふわのバスタオルを乗せ、パタパタと髪や衣服についた水滴を吸い取っていく。
「しょうがないわ。今日はもう外には出ないでしょう?」
はるかからバスタオルを受け取って、みちるは自らの身体に軽く纏わせたあと、はるかが持ってきていたもう一枚を彼女に被せた。いつもであれば黄金色に輝く髪が、今はしっとりと水を含み茶色っぽくなっていた。実家にいた時に飼っていた犬にどこか似たその毛色に、みちるは少し嬉しくなり、わしゃわしゃとはるかの髪をタオルでかき回す。
「少し早いけど、お風呂に入りましょ」
本来であればまだ日は高く、ゆっくり散歩した後で改めてディナーに出かけるくらいの余裕もあったし、あるいは散歩のついでに輸入食品の店で買い物をして、少し早い時間からワインを開けるのもよかっただろう。そんな夕方の過ごし方を、まだまだいくらでも考えられるくらいの時間だった。
だがこうなってしまってはもう、改めて外に出ようとは思えない。さっさとバスタブにお湯を溜め、二人は雨で冷え切った身体を温めることとした。
「あら。ねえ見て、もう雨、止んでるわ」
この家のバスルームは、マンションにしては珍しく外に通じる窓がついている。みちるはそこから外を覗いて言った。はるかも覗いてみたが、みちるのいう通り、先ほどまであれほど厚くかかっていた雲は晴れ、薄日が差してきている。
「不運だったな。ちょうど雨が降る時間に外に出るなんて」
「はるかって、雨男? いえ、雨女? ……だったかしら」
「まさか。僕が出るレースは、いつだってピカピカの晴れ空じゃないか」
はるかが顔を顰めた。みちるはその顔を見てまたくすくすと笑う。
窓の外を眺めながら二人でバスタブに浸かっていると、はるかはなんだか二人だけ別世界に切り出されたような気持ちになる。外はまだ忙しなく人が活動しているというのに、裸で身を寄せ合っているという事実。“今はまだ”、恥ずべく行為は特に何もしていないというのに、不思議と背徳感や特別感を抱く。それは、幼い頃からの習慣で、日中明るいうちは服を着て外で活動するものだと刷り込まれてきたせいだろうか。
窓から目を離してみちるの横顔に視線を移す。なめらかな素肌からはすっかり化粧が落ちていたが、実際のところは化粧をしてもしていなくても、みちるは美しい。もちろん、自分のために丁寧に着飾り化粧を施すみちるを見るのも、はるかは嫌いではなかったが。
「ねえ、今日はこの後どうしましょうか。…………はるか?」
みちるがそう問うためにはるかに視線を向けると、はるかはすでに自分をじっと見つめていることに気づき、訝しむように覗き込む。
「そうだな……」
はるかの心にほんのりと悪戯心が芽生えた。
せっかくだから、今の特別感をもっと長く味わうのも悪くないかもしれない。だって。
「今日はもう、外には出ないだろ?」
はるかはみちるの手首をくいと引き寄せた。パシャ、と軽い水音と共にはるかの腕に抱き込まれ、みちるは一瞬驚いたように目を見開いた。素肌がふれあい、湯を纏った二人分の大きな膨らみが形を変える。はるかは血色良く光るピンクの唇に、躊躇いなくキスをした。
「まだこんなに明るい時間なのに」
みちるは軽い抗議の声を上げたが、本気で抗うつもりがないことは、瞳の奥が語っていた。はるかもそれに気づいているから、みちるを抱く手を緩めず口角を上げてにやりと笑った。
「だからいいんだ」
みちるの肌になめらかに纏う湯を拭い去るように、はるかはみちるの背から肩甲骨にかけてをゆっくりとなぞる――それはまるで、脱がせる必要のない衣服の代わりに、二人を隔てるヴェールを捲り上げていくように――。
身体に走った高揚感にみちるは軽く息を乱して呟く。
「そう……、ね」
それから、みちるはまるではるかが企む悪戯を共有できたとでもいわんばかりに妖艶に微笑んで、彼女の首に腕を回し、耳許に唇を寄せて囁いた。
「――だからはるかといると、退屈しないんだわ」